終章 いつか君の木陰の下で


それからの事を少し……。
警視庁、警察庁は自衛隊に対する情報の開示を求めて一触即発の状態になったそうだが、
それらの事は結局、内々でもみ消されることになった。
 自衛隊との間でなにがしかの取引があったことは間違いないだろう。
 垣崎さんからその話を聞くことになったのは、ずいぶん後になってからのことだ。
 これも後々になってから聞いたことだが、木田という自衛隊員はしばらく自宅謹慎をし
ているという。独断で動いたことに対する罰則が科せられたそうだ。垣崎さん松岡さんは
何度か会いに行ったそうである。
 松岡さんはその後、相変わらず君子の家で働いてるそうだ。
 たまに俺も顔を合わせる。
 垣崎さんは公安部から捜査一課に転属。降格人事だそうだ。出世街道からは外れてしま
った、という内容を松岡さんづてに聞いた。
 犬養は行方不明のままだ。
 あの高所から飛び降りて無事とは考えづらいが、だからといって逮捕されてもいなけれ
ば死体が見つかったわけでもない。結論は出ないまま。無事に生き延びているのかもしれ
ない。
 俺たちには確かめるすべはないのだ。
 君子と俺は……なんのお咎めもなかった。
 できなかった、と言った方がいいのかもしれない。
 そもそもが極秘で行われていたことであったろうし、調書を作るにしたってあまりに非
科学的な内容になることは間違いない。
 陸上自衛隊は俺たちを捕縛するも、そのまま解放という事になった。
 今は夏休みの前半戦。
 あれから一週間たって俺は………。
「五郎!」
「……………」
「なにだらっとしてんのよ! 安延さんが呼んでるわよ!」
 仁王立ちの君子が勝手に俺の部屋に上がりこんで喝をいれる。
 そう、俺は人並みにへこんだまんま、無気力で無為な時間を過ごしていた。
 ダメだってわかっちゃいる。頭はそれを痛いほどわかっているのに、頭と体がどうにも
連動しなかった。心って言うのは脳髄にだけあるものじゃねえんだな、と実感する。
「いつまでもそんなところでダラダラしててどうすんのよ! バカじゃないの? ほんと
にさあ。いつまでも時間が有限にあるなんて思ったら大間違いだからね」
 わかってるよ。
 それはよくわかってるんだ。
 君子は強いな、と思った。
 君子が無茶な事を言ってるのは、彼女がタフで鈍感な人間だからじゃないことは俺が一
番よくわかっている。一緒にいて、双葉と過ごして、そしてああして別れて君子が傷つか
ないわけがない。
 それでも君子は俺を励ますために、身体を奮い立たせてこうして常勝館の俺の部屋に来
て憎まれ口を叩いてくれる。
「いい加減、ごはん食べなさいって。あんた幾日たべてないの?」
 言われてはじめてどれくら食事をとっていないのか指を折って数えてみる。
「……バカ! ほんとバカ!」
 君子は顔を赤くして本気で怒った。
「あんたまで死んじゃったらどうすんのよ!」
 俺の胸ぐらを掴んで目に涙をためる。
「あたし許さないからね! あんたまでそうやって死んじゃったら……絶対許さないから
ね!」
 つかんだまま力なく君子はその場にうなだれる。
「もう……あたしを一人にしないでよ…………」
「……………」
 目が覚めるようだった。
 俺が悲しいのは当たり前だ。
 でも君子も悲しい。それも当たり前だ。
 だけどそれを共有することができるのは、俺と君子だけなんだ。
「………すまん、君子」
 君子はゆっくり顔を上げる。
「なに今頃あやまってんの! バカ! 死ね!」
 一人にするなと言った矢先に死ねか……君子らしいな。
 俺は一週間ぶりに少し笑った。
 気晴らしといって気が晴れるわけもなく、それでも一所にずっといても仕方ないわけで
、俺と君子は安延さんに散々心配をかけた事を謝り、食事をいただき、そして新宿に出て
きた。
いつもと変わらない。
 見知らぬ人々が行きかう無頼の街が俺と君子を迎えてくれる。
 ここで知り合いに会う方が難しいくらいに行きかう顔は知らない人ばかりだ。
 俺も君子も話すこともなくどこへ行くでもなく、ただ無言で街を歩いていた。
「……ねえ」
 突然君子に声を掛けられて俺は彼女の顔を見る。
「双葉が残したあの石、まだ持ってる?」
「……ああ」
「どうするの?」
 俺はポケットの中からトゲトゲとした硬質の石を取り出す。
「どこかに埋めようと思ってるんだ」
「埋める?」
「ああ、そうしろって双葉に言われたような気がする。気がするだけなんだけどな」
「……ふぅん」
 君子は否定するでもなく、何か考えるように口をとがらす。
 あのとき自衛隊にこの石を押収されることはなかった。ただの石だと思われたらしい。
 君子は遠くを見つめながら口を開く。
「どうせあんたいずれあの寮は出ることになるでしょ」
「そうだな。近からず大学に進学したら別の寮に移ることになるな」
「実家にだって帰る気はないんでしょ」
「ああ、そのつもりだ」
 君子はそれを聞いてから、やはりまたなにか考えだす。というより、言うか言うまいか
悩んでいるようにも見えた。
「あのさ……だったらあたしんちの庭に埋めればいいじゃない」
「君子の家の庭?」
「敷地ならあまるほどあるし……それとも寮の庭に埋める? いずれ取り壊しとかになっ
て、どこに行っちゃったかわからなくなるよりは、いいんじゃないの?」
 君子は俺の顔なんて見ようともせずに目を伏せがちに口元をとがらせて続ける。
「………あたしんちなら、あんただっていつでも来れるでしょ」
 どうやら君子は俺に気を使ってくれているようだった。素直にそれを出すことができな
い彼女はいかにもつまらなそうに、嫌なら別にいいわよ、と言って口を噤もうとする。
「じゃあ、お願いしてもいいか、君子」
 横目で少し君子は俺を見ると、二ミリだけ頷いた。
君子の気づかいがうれしくて俺は微笑む。
 俺はそのまま目線を進行方向に戻した時だった。
 目の前を歩く人物を見て足が止まる。
 それは君子も同じだったようで、口をポカンと開けて俺の袖を引っ張る。
「ね、ねえ……」
「……ああ」
 間違いなかった。
 俺たちの前を歩いている少女の姿に、俺と君子は目を疑った。
「……双葉!」
 喉の奥から振り絞った俺の声に、前を歩く少女はこちらを振り向く。
 一緒に歩いていた中年の男性は父親だろうか?どことなく少女に似ている気がする。
「……なんでしょうか?」
 少女は不思議そうに声の主である俺を見る。
 しかしその顔を見て俺はすぐに思い至る。
 どこか儚げで、虚弱そうにすら見える彼女は双葉にそっくりな別の人だった。
夏の熱に絆された陽炎の舞うアスファルトの上に立つ双葉の幻のようだった。
「どうかしましたか?」
 土木関係の人なのだろうか? 父親らしい中年男性の手の皮は厚く機械油などの落ちな
い汚れが染みついている。顔には苦労の跡が皺になって染みついていた。
「いえ……知り合いによく似ていたもので」
「そうですか」
 父親は薄く、しかし幸せそうな笑顔をのぞかせる。
「娘は最近までずっと入院していましたので、むかしのお友達かと思いましたが……」
 やはり違った。
 喪失感はなかった。心のどこかでそうではないかとなんとなくわかっていたんだ。
 ただあまりにもその少女が双葉に似ている事実が俺には驚きだったし、父親が語る少女
におこった奇跡は少し前の俺なら耳を疑う内容だった。
「二年ぶりに目が覚めまして……」
 数年前、新宿を襲った学生たちの反戦デモ、国際反戦デイの新宿騒乱の時少女は大きな
怪我を負ったという。
 怪我などという次元ではなかった。
 意識不明のまま二年近く床に伏せっていたのだから。
 医者は回復の兆しのない事を、父親に伝えたそうだ。
 しかし三週間前、彼女は突然目を覚ましたそうだ。
 理由はわからない。医者もその事に関しては首をひねったそうだ。こんなことがあるな
んて信じられないと。
 しかし最後に父親が言った言葉に俺も君子も顔を見合わせた。
「目を覚ます前にね、緑色に光る毬栗のような石をお守りに持たせたんですよ。その後に
事態が急変して……それで私は娘に何かあったのではないかと思い、その石は捨ててしま
いましたが、もしかしたらその石のおかげかもしれませんね」
 少しだけ話して、父親と双葉によく似た少女は去っていった。
 ――あたしに血を分けてくれた人がいて。
 双葉の言葉が甦る。
「ねえ」
 君子は去っていく二人の背を見守りながら息をのむ。
「ああ」
 俺も同じ顔をしていたのだろうと思う。
 でもそれ以上は言葉にする必要はなかった。そういう事なのだとおたがいわかっていた

 双葉は血を分けてもらって、そして一人の少女を救っていた。
 それだけの事実なんだ。
君子の家につくと庭の端に穴を掘った。
 柔らかな土にスコップを入れると抵抗なく掘り進めることができた。
 深くも浅くない程度に開いた穴に、そっとトゲトゲとした石を寝かしてやる。
「双葉、じゃあな」
 土をかぶせる。
 小さく盛られた土を手で叩いて固める。
 日当たりのいいその一角は真夏の日差しを受けて表面の土がすぐに乾いてしまうほどだ
った。
 俺も君子も何も話さずしばらくその場を見つめていた。
 蝉の声が遠くに聞こえる。
 首を伝う汗の感覚に、もうすぐ夏なんだな、と思った。
 それから数日たっての事だった。君子からの電話で俺はすぐに君子の家へと向かう事に
なった。
 何事かも分からず、門の前まで来ると君子が殊勝にも俺が来るのを待っていた。
 俺の姿が目にとまるやいなや、俺の手を取りグングンひっぱていく。
 連れて行かれたのは双葉の欠片を埋めた、庭の隅だった。
「……………」
 そこには若草色をした一対の双の葉が芽吹いていた。
 俺はしばらく立ち尽くし、それからふらふらとその小さな芽の元へ歩をすすめる。ゆっ
くりとその場にしゃがみこみ、ただ青々と日の光を受けるその小さな葉を見つめた。
「今朝起きたら、芽が出てたの」
 君子は言いながら俺の横にしゃがんで膝を抱える。
 いつものように君子は少し不機嫌そうに、でも消え入りそうな声で言う。
「………一緒にいるから」
「……………」
「どうせあんたはバカだからホイホイ他の女の尻追い回すんだろうけど、でもいつか双葉
がここに木陰を作るまで………私あんたのそばにいるから」
 俺は君子を見る。
「ち、違うから! そういう事じゃなくて……」
「何が違うんだ?」
「その……双葉と約束したでしょ! 三人で一緒にいるって!」
「……ああ、わかってる」
 君子はブスッとした顔のまま膝を抱えた腕に顔をうずめる。
「わかってないわよ」
 日が高く登っていた。
 夏の強い日差しが痛いほどに降り注いでいた。
 俺と君子の間を優しい風が通り抜ける。
双葉はね……いつかゴローや君子のために木陰をつくるね。強い日差しの下でもそこだけ
は涼しく優しい風が吹く木陰をつくるね。それでゴローや君子の事を見守ってるからね。
耳をくすぐるように通り抜けた風の向こうから双葉の声が聞こえたような気がした。
ぽたり、ぽたりと双の葉の上に落ちる雫を見つめながら、俺は声もなく少し震えながら精
いっぱい双葉に向かって微笑みかけた。
「おやすみ、双葉」
 双の葉はそよ風にまどろむように揺れた。
                    《おわり》
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