第四章 暗中交錯 H

 ****
夢を見た。
自分の一族の夢だった。
 人の姿をしてしまった、人ではない民族。
 人よりも何倍も何百倍も長く生きる民族。
 双葉の見てきた風景……違う。双葉の一族が見続けてきた風景が見えた。
 死なない労働力として奴隷のように使役される者たち。
追い詰められ、捕まり拷問のような追及の日々。
永遠のような時を生きる双葉の一族はひたすら人間の欲の餌食となっていく。
 そして彼らは人の形を捨てる。
 追及される事を恐れ、人を恐れ、すべてに絶望し、人の形を捨てる。
 土中の闇。
 千年の孤独。
 無音の息苦しさ。
 犬養の顔が浮かぶ。
 犬養の手にはメスが握られている。
 手足を固定された双葉に鋭利な切っ先が振り下ろされる。
 叫び声。
 広がる痛み。
 それでも死ねない身体。
 繰り返される犬養の実験。
 いつしかその夢は双葉の体験と重なり、夢から記憶へと移り変わっていく。夢現の境で
双葉の中に鮮やかに展開される記憶の断片たち。
 喫茶店の風景。
 君子がいる。
 ゴローもいる。
 込み合う電車。
 抱えられた爆弾。
 瞬時に轟音と視界をふさぐ黒煙。
 手を差し伸べてくれた。
 ゴローだけが手を差し伸べてくれた。
 暖かい。
 人の手は……とても暖かい。
 ゴロー……ゴロー……ずっと一緒にいたいよ。
 ずっとずっと――百年先も千年先も一緒にいたいよ。
 でもゴローは必ず死んでいく。双葉より先に死んでいくんだ。それでもかまわない。そ
れでも一緒にいたい。
 一分でもいい、一秒でもいい。双葉はゴローと一緒にいたいんだよ。
「……ゴロー」
 眼はまどろんで、自分の存在がだんだんと薄れて行くかのようだった。夢と現実の間を
幾度も行き来しながら、双葉はやっとの思いで薄く開いた瞳に君子の姿がうつり込む。
 まだ夢なのか現実なのか僅かに迷った。
「双葉!」
 君子の声。
 君子が泣いてる。なんで? どうして?
 どうして君子は泣いてるの?
「ダメ、双葉!」
 君子が自分を抱き締める。なのにその感覚はあまりにぼんやりとしていて脆い。そこは
もう夢の中ではないのだとわかった双葉に君子の記憶が流れ込んでくる。
 五郎が自分を助けるために犬養を抑えつけて下に残った。もうここには五郎はいない。
 その事がわかっただけで、双葉は急に悲しくなった。
 なんで悲しいんだろう……?
 重たくて仕方ない眼を少しだけ開く。
 自分の手のひらが見えた。
 手のひらの先に街の明かりが見える。
 自分の手を透かして街の明かりが見える。
 ……ああ、そうか。力を使いすぎてしまったんだ。何千年も生き続ける生命力を自分は
あの一瞬に込めてしまったんだ。
 だからこんなにも瞼が重たいんだ。自分の身体がこんなにも重いんだ。
「双葉しっかりして!」
 自分のすぐそばにいるはずの君子の声がひどく遠くから聞こえる。
 できることなら……ねがいがかなうのなら……ゴローにもう一度会いたい。もう一度、
手を握ってほしい。
 ゴロー……ゴロー……あいたいよう………。
 涙が零れた。もう言葉を発することも、目を開けていることもできないと思っていたの
に涙の雫が零れおちる。
 それは千年の孤独よりも、無音の息苦しさよりも、迫害の日々よりも、犬養の実験より
もつらかった。この世界にこんなに苦しくて、こんなに辛くて、こんなに切なくて、それ
なのに胸の奥がずっと熱い事があるんだ。
 ずっと一緒にいられるものだと思って、はじめて五郎と離れ離れになって感じる孤独。
もっと早く気付ければよかった。
 こんなにも会えないことが辛いのなら、もう二度と会えないかもしれないのなら……。
 後悔の気持ちが再び涙となってあふれ出る。双葉はそれをぬぐう力もないことに指一本
動かすことのできない自分に、非力すぎる自分にまた涙が零れる。
「死んじゃダメ! 双葉、お願いだから目を開けて!」
 君子が自分を抱き締めてくれている。泣きながら必死で自分を抱き締めてくれている。
 しかしその感覚はひどく遠い。君子が抱きしめてくれているはずなのに、幾重にも毛布
にくるまれた外から抱き締められているような感覚。暫時その感覚は肥大していく。
 どんどん自分が遠いところへ行ってしまうのがわかった。
 もう駄目かな………。
 そう思うと身体が少し軽くなる。
諦念だとわかっているものの、消えて行く運命に逆らおうとすることの方が苦しかった。
諦めてしまった方が楽だった。
 足音が聞こえる。
 誰の足音か双葉にはすぐにわかる。
 こうして目を瞑っていても誰が近づいてきたのか耳ははっきり覚えている。
 深い水の底へ沈んでいく魂を救いあげられるように、双葉は重たかったはずの眼をうっ
すらと開いた。
「………!」
 その視界に映り込んだのは間違いなく五郎の姿だった。
 ゴローが来てくれた。やっぱり来てくれた。
「双葉、さあ、帰ろう」
 五郎はあちこちに擦り傷や切傷が見える。それでも、そんな傷をものともせず双葉の元
に駈けよる。五郎はゆっくりと近づき双葉に手を差し伸べる。いつかと同じようにその大
きな手を双葉に差し伸べる。
 しかしもう双葉には手を上げる力は残っていなった。代わりに双葉は僅かに首を横に振
る。
「なに弱気な顔してんだ。一緒に帰ろう。君子も松岡さんも垣崎さんもみんな一緒に帰ろ
う。なっ! おまえも……双葉も一緒じゃなきゃ、意味がないんだよ」
 君子の嗚咽が聞こえる。泣くのを必死で我慢している肩の震えが双葉に伝わってくる。
「みんなで帰ろう。そんでそれから先のことはみんなで考えるんだ。双葉も考えるんだ。
なんだっていい。みんな一緒にいられるんなら、それ以上の幸せはないんだからさぁ……
なあ、双葉……なあ……」
 ねえ、ゴロー。そんな顔しないで。
ずっとずっと生きてきて。ずっとずっと孤独で。ずっとずっと辛くて。でもね、双葉はゴ
ローと出会って本当に幸せだったんだよ。
「なあ、双葉。頼むよ……起きてくれよ……」
 双葉ね、ゴローのこといっぱい知ってるんだよ。ねえ、聞いて。
 ゴローはね、コーヒーになにもいれずに飲むんだよね。双葉も、マネしてみたけど苦く
てこっそり砂糖いっぱいいれちゃったんだ。
 それからゴローは寝てる時寝言いうんだよ。何て言ったか知ってる? 君子の事ずっと
呼んでたんだよ。なんの夢みてたのかな。
 それから……それから……だめだ。話したいことがいっぱいだ。ゴローとまだたくさん
話したいことがあるのに……これじゃいくら話しても足りないよ。
「双葉……おい……」
 五郎は動くことのできない双葉の手をとる。
 ……あ……やっと手を握ってくれた。
 暖かい。やっぱりゴローの手は暖かい。
 はじめて優しく握ってくれたあの時とかわらない、柔らかな温もり。
 刹那の間、双葉の目にあたたかな陽だまりが映り込む。夏の強い日差しが大樹にふりそ
そぎ、その下にできた陽だまりには一対の男女が座っている。風が通り抜ける。女性がす
こしくすぐったそうに微笑む。男性がなにか話している。双葉にはその声は聞こえない。
でも何を話しているのかわかるような気がした。
 遠い遠い、どこかの記憶。
 双葉の目に再び五郎の顔が映り込む。
 ああ、そうか。
……ばいばいじゃないんだ。
 ねえ、ゴロー……聞いて。お願いがあるんだ。双葉が消えちゃったら、ゴローの近くに
埋めてね。双葉はゴローのことを、それから君子のことを見守ってるから。いつも一緒だ
よ。ずっとずっと一緒だよ。手は握ってもらえなくなっちゃうけど……ゴローって呼ぶこ
ともできなくなっちゃうけど……でも、ずっと三人いっしょだよ。
 ゴロー……ゴロー………わたしの大好きなゴロー……だいすきだよぉ……ごろぉ……。 r
「ふたば!」
「ふたばぁ!」
 五郎の声と君子の声が聞こえる。
 もう双葉には何も見えていなかった。
 うっすらと開いた目にはただ暗やみばかりが映り込んでいた。
 しかし双葉にはその暗闇が、あの土の中のような孤独の闇とは別のものだと思えた。
 ゴロー……君子………
………双葉は……とっても眠いよ……。
こういう時はなんて言うんだっけ…………。
…………ああ、そうだ…………………………。
 もう瞑りかけていた眼をほんの少し押しあげ、僅かに口さきが動く。
ありがとう。
おやすみなさい。
    ◇◇◇◇
 ぽろぽろと零れおちる涙の雫が空気に溶ける。
「……………」
 吹き上げる風に散る花びらのように双葉の姿は光を散らしながら……消えた。
 握りしめた手の中に双葉の手の温もりが残っている。
 そっと五郎がその手のひらを開く。
そこにはとげとげとした灰色に沈んだ石が僅かな体温を残してたたずんでいた。
inserted by FC2 system