第四章 暗中交錯 E


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 双葉の網膜に映し出された風景が何であるのか、双葉本人にはまったく見当がつかなか
った。
 海辺の集落。
 どこかの寂しい印象のある漁村の風景。
 覚醒してしまった自分の力が誰かの記憶をかすめ取っていた。
 かすめ取った記憶の主の長い成長の過程とその周りに集まる要因たち。それらのものが
走馬灯のように双葉の網膜の裏側に流れ込む。
 たくさんの兄妹たち。
 村の人々。
 家族は村から疎外されていた。
 割られてしまった窓は幾度も紙を張って補修されていた。
 家の壁には泥が投げつけられいつも汚れていて、家の外においてあるものはことごとく
壊されうち捨てられている。
 それでも家族たちは何も言わなかった。
 家の外に生ごみが捨ててあれば、それらを掃除し、壁は海水を汲んで来ては汚れをぬぐ
った。
 夜になれば壊された物を丁寧に直していく。
 誰も文句を言う者はいなかった。記憶の主本人ですら、そうであることが生まれた時か
ら普通であると認識し、過剰にその理由を知ろうとはしない。
「おまえの家は犯罪者の家だからな」
 誰かが話している声が聞こえた。
「やつらもいずれ災いの種になる」
「はやく出て行ってくれないかね」
「よく平気で暮らしていられるよ」
「汚いよ……犯罪者の血がうつる」
 断片的に聞こえてくる村人たちの声には悪意がにじみ出ていた。
 漠然と家族に出て行くことを告げた。誰ひとり反対する者はいなかった。
これでいいのだ。
一人歩きながら、流行りの漫画のセリフを呟いてみた。
 東京の高校を受験し、奨学金をもらい、村を去る。
 家族は誰も見送りには来ないようだ。
 しかし妹だけが見送ってくれた。妹はひたすら「ごめんね。ごめんね」と言っていた。
 なんのことを謝っているのかわからない記憶の主は妹に、
「はやくお前も一人で生活できるようになれ。中学卒業したらすぐに村を出たらいい」
 とだけ言った。
 妹はただ首を横に振るだけだった。
 別れを告げ東京にやってきた。
 ゴロー、ゴロー。
 双葉は網膜の裏側に現れる記憶の主に話しかけるが彼は気づいてくれない。それは双葉
が作り上げたものではないからだ。他人が記憶しているにすぎない記憶の断片がうつり込
んだだけにすぎず、双葉の行為はスクリーンに映り込んだ俳優に話しかけているのと変わ
りなかった。
 ゴロー、ゴロー。
 それでも双葉は話しかけずには居られなかった。彼の孤独の大きさに、彼の傷に、双葉
は触れたいと願ってしまった。しかしその声は決して届かない。
 長い夢から掬いあげられるように双葉は虚ろに眼をあける。
 うつり込んできたのは自分を抱き締める君子の姿だった。意識を取り戻した双葉に君子
は双眸を開いて見つめている。
 優しく君子に微笑みかける。
「君子」
「…………なに?」
 君子の過去が見えた。
 君子の未来も見えた。
 君子がたどる道が見えた。
 彼女は何度も同じ苦しみをしてきたのだろう。
 どこまで行っても、彼女を同じ悩みが追いかけ、追い越し、そして苦しむ。
「でも大丈夫」
「……………」
 君子は驚きを隠さなかった。双葉に見えたものが何であるのか彼女は察しがついたのだ
ろう。そしてその上で双葉は同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫………ゴローならきっと君子を救い出してくれるよ」
 君子は何も言わなかった。もしかしたら言えなかったのかもしれない。それでもいいの
だ。
双葉の瞳に映ったのは君子の幸せそうな笑みだったからだ。
しかしその光景が見えると同時に双葉の身体から何かが抜け落ちるように脱力する。
「双葉!」
 君子の声が遠くに聞こえる。
 自分が最後に見たのは君子の記憶だけではなかったようだ。
それはもしかしたら双葉の願いだったのかもしれない。
そうなってほしいと自分が願っているのかもしれない。
しかしそれが願いだったとしても、真実だったとしても双葉が見てしまうにはあまりに大
きな存在だった。それは双葉がすべての力を使ってみることのできる精いっぱいの未来の
姿だった。
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