第三章 観念迷宮 E


 急勾配、急カーブがつづく坂道を松岡さんの車が駈け登っていく。
 すぐさま民家の明かりは少なくなっていき、あっという間に木々が鬱蒼と茂る山道にな
った。道は舗装されているからいいようなものの、一寸先は闇。
 目の前を垣崎さんのパトカーが先導するが、星もない空の下はあまりに暗すぎてまるで
どこかに向かってゆらゆらと落ちて行っているような錯覚をおぼえる。
 ギリギリのところで現実を繋ぎとめてくれるのは双葉の手から伝わる暖かな感覚だたっ
た。
「ゴロー」
「なんだ」
「たくさん人がいる」
「え?」
「たくさん、たくさん人がいる」
 双葉の目線の向こうは纏わりつくような夜気をはらんだ闇。
 その中に蠢く何かを双葉は感じ取ったのだろうか。
 怖ろしく遠くを見つめながら双葉は何度も、たくさん人がいると言った。
「五郎、どうする?」
「突っ切るしかないだろう」
「だけど……」
 君子が少し不安そうに闇の向こうに目を凝らす。不安の原因はわかっている。突っ切る
なんて事させてくれない連中だろうことは予想がついている。
 そんな矢先に車の後部座席ががくんと沈む。すぐさま車はスピンをするが松岡さんはハ
ンドルを切って立てなおす。
「後部のタイヤをやられたみたいです」
 歯がみをしながら松岡さんは車を急停車させると、前を走っていた垣崎さんの車もやは
りスピンしながらなんとか立て直し、俺たちの車の真横にぶつかるギリギリで着ける。
 パトカーの車窓が開く。
「どうやらここまでのようだ」
 苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めて笑う垣崎さん。
「神奈川県警が間にあわなかったか……それとも、やつらに足止めくらってんのか」
 そう言って垣崎さんもまた闇の向こうに目を凝らす。
 数点の赤い光が見えたような気がした。
 次の瞬間、雨のような銃弾が放たれた。
「……………!」
「…………………」
「……………」
「………!」
 全員がその場に伏せって息を殺し、歯を食いしばる。
 くそっ! なんなんだよ。こんなことする集団だったのかよ自衛隊ってよ。
 んな詳しい事なんて知らねえけどさ、人に向けて撃たないんじゃないの?
 車のあちこちに当たってはじける。
 ギンっ、グアンっ、と鉄どうしがぶつかり合いはじける音が響く。その都度車体は揺れ
軋み不安をあおり恐怖を増大させ冷静さを削いでいく。
「身を低くしていてください」
 松岡さんが眉間にしわを寄せて蜘蛛の巣のように罅入った防弾ガラスの向こうを見なが
ら言う。
「どうやら威嚇のようです」
「どこが威嚇なのよ! めちゃめちゃ当ててきてるじゃないの!」
「いや、うまいもんです。暗視スコープでも使ってるんでしょう。こっちにゃ勝ち目がな
いですね」
 冷静に言わないでくださいよ、そんなこと。
「安心して下さい、広島とやりあった時よりはましです」
 わわっ! なに広島って? 仁義無いの? 仁義無い感じの戦いをしたの?
「ちょいと無茶をやりやしょう」
 にやりと笑った松岡さんは、座席の下から……やっぱり拳銃をもちだした。
「鳶……ですよね?」
「ええ、鳶でやす」
 絶対嘘だよ……。
 すぐさま松岡さんは窓から隣の車に手信号を送る。どういう訳か垣崎さんはそれを理解
したのだろう、ものすごく不愉快そうに顔を歪めて吐き捨てるように少し笑った。
「あっしの合図で車から飛び出し、あっちの方向へ走りだしてください」
 そう言って指さす方向は、山を登っていく形になる。おそらくその方向には敵がいない
と予測されるのだろう。
 俺たちは全員頷いて、車のノブに手をかける。
「行きやすよ」
 隣の車にも指信号で伝えながらカウントダウンを始める松岡さん。
 おいおい、何がはじまるってんだよ。でも、ここは松岡さんを信じるしかない。
 言われた通りに合図の瞬間に走りだすしかない。
 そこに打開の道があるのなら。
「3……2……1……いきやす!」
 俺たちは車外に一気に飛び出す……と同時に後方でとてつもない熱量が膨らみ、続いて
轟音が鳴り響く。耳がバカになりそうなほど、背中を火傷しそうなほどの……それは大爆
発だった。
 振り返ることはしなかった。
 でも俺にだってわかる。
 松岡さんと垣崎さんは拳銃でどこを撃ったのかはわからないが、ようするにガソリンを
爆発させたのだ。
 銃声と同時に爆発……と言う事を考えると、二人はおそらく……。
「このくそヤクザが! なんでこんなバカみてぇな作戦立てるんだ!」
「仕方ないでしょう! 他に方法がありやしたか?」
 あれ?
 真後ろには若干焦げている松岡さんと垣崎さん。
「生きてたんですか!」
「「勝手に殺すんじゃねえ!」」
 警察とヤクザがこんな時ばかり息がぴったり。おっかねえなぁ……ちびるぞ。
「さっすがは松岡。やるじゃないの」
 御嬢さんの褒め言葉にも
「いえ、この程度はどうってことはないです」
 とまあ、照れ隠しなのかなんなのか謙虚に答えながら口元を緩ます。
 先導する君子はこちらをちらっと見て檄を飛ばす。
「ほらしゃべってないで、行くわよ!」
「はーい!」
 元気に答えられるのは双葉ばかり。
 実際、めちゃめちゃきついのだ。ものすごい急な上り坂。なんか這い上っている感じ。
 ありえねえ。なんであいつらあんなサクサク登ってられんだよ。
 君子の足は確実に地を捕らえながら的確に登っていく。
 双葉はといえば飛び石を渡るがごとくぴょんぴょんと重力に逆らうように上を目指す。
 俺はといえば亀か鈍牛のごとくのそりのそりと登っていく。
 いや、けっこうなスピードで登っているはずだ。にもかかわらずあいつらがはやすぎる
から俺の歩みが牛歩のように感じるんだ。そうだ、そうに違いない。そう信じたい……。
「ほら、急がねえと追いつかれちまうぞ」
 後ろからは垣崎さんが怖い顔で睨みつけてくる。くそ、やっぱ遅いのか……俺。
 登れど登れど頂上は見えてこない。いや、俺たちが目指しているのは頂上じゃないのか
。天辺まで行っちまったらそれこそ袋の鼠だ。
「さて、俺たちはここまでかな」
 切り出したのは垣崎さんだった。
「な、なんですか?」
「ああ、だからやなんだガキは。察しが悪い」
「まあまあ、いいじゃいッスか」
 宥めるのは松岡さん。おかしくない? この構図。
「もう少ししたら沢がありやす。それに沿って行けばふもとの村に出やす」
 松岡さんが指さす方向には黒々とした闇が横たわっているだけで、その先に沢がるのか
どうかはわからない。
「ほう……っつーことは、あのあたりか」
 垣崎さんも地理を把握したのだろう。どのあたりに向かっているのか見当がついたよう
だ。
「そう言う訳なんで、お譲。後はお気をつけて」
 松岡さんははじめてのお使いに出て行く愛娘を見るように君子にその視線を向ける。
「松岡も死ぬんじゃないわよ」
「へえ、広島帰りは伊達じゃあございやせん」
「ほう、おまえさん広島かい」
 顔をゆがませ少し笑って合の手を入れたのは垣崎さんだ。
「さあ、早く行け」
「ここはあっしらが何とかしますんで」
 突き飛ばすように松岡さんは俺を手で押し出し、少し笑いかけた。
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