第三章 観念迷宮 C


君子はここ数日、家を空けている事もあってか、今日は帰ると言って、俺たちを車で寮ま
で送ってくれた。帰ると安延さんが心配そうな顔で俺と双葉を迎えてくれる。
申し訳ない気持ちもあるし、迷惑をかけている事もある。
事の経緯を話していると、夕飯を食いに降りてきた八幡先輩に出くわした。
「おう、無事だったか」
 彼も心配してくれていたのだ。朝早くに挨拶もなしに出てしまったことを詫びる。
「いいんだけどよ、賢三の奴が話したいことがあるって言ってたぞ」
 何のことか思い当たる節はない。まさか恨みごととかないよな?
俺は夕飯を前に安延さんに断わりを入れて、賢三の部屋を訪れる。
 相変わらず配線と機械類に囲まれた足の踏み場もない部屋の奥で、賢三がジッとうずく
まってなにやら機械と格闘している様子だ。
「賢三、入るぞ」
「入るぞー」
 俺と双葉の声にこちらを一瞥すると、手招きをしてこちらへ来いと促す。
「なんだよ」
「ちょっとこれ見て下さい」
 先日垣崎……垣崎さんを捕らえる時に使った音波発信機の受信装置から出ている長いレ
シートだ。そこにはグラフのようなものと数字が書き込まれているだけで、それが何を意
味しているのかはわからない。俺よりも双葉の方がしきりに首をひねっている様子だ。

 それを見て賢三は「ああ」と俺たちがこのグラフを読み取れないのだと気づいて、すぐ
に説明を施してくれた。
「昨日の発信機なんですけど、ずっと取りつけたままにしてたんです……ってか、回収す
るのも面倒だったし、しばらく雨も降らないからってそのうち少しづつ回収しようかなっ
て、思ってたんですけれど、なんかここから、ここまで見てもらっていいですか」
 レシート用紙に印字された線グラフにどうやら反応があったらしく、しばらくその反応
が続いている。
「これね、紙がもったいないから圧縮してあるんですけど、こっからここまでで、約八時
間、人がずっと立っていたってことなんです」
「機械が壊れたってことはないのか?」
「それも考えて、受信データを全部印字してみたら、他の地点にも幾つも同じ反応がある
んです。一気に何台も壊れるような装置じゃないんです。つくりは単純な分、丈夫ですか
ら」
「それってよ、ずっと寮の周りを誰かが見張っていたってことか?」
「そうなります」
 背中に嫌な汗が浮いた。
 双葉は俺のシャツの袖を掴む。
「……ありがとう賢三」
「五郎さん、俺になんか協力できることってありますか?」
 賢三の気持ちがうれしかった。
 しかしもうこれには関わってはいけない。たぶん取り返しのつかないことになる。
 首を横に振ると賢三は明らかに悲しそうな顔をする。こいつも双葉のことを心配してく
れているんだ。でも気持ちだけ、そんだけで十分だ。
「ありがとう。お前がいてくれてよかった」
「そんなことないっす」
 しょぼくれたように肩を落としていた賢三は、何かに気づきは勢いよく立ちあがると、
見覚えのあるものを取り出してきた。
「これ持ってて下さい」
 それは昨日活躍した高圧電流を流す装置だった。
俺は頭を下げて、賢三の部屋を後にした。双葉を連れて部屋に戻る。ドアを閉めてから、
明かりをつける。外から見えるだろう。だが、あちらさんはもう、俺たちに気づいている
だろう。今更気にする事もない。
「なあ、双葉」
「なんだ?」
 無垢な顔で俺の瞳を覗きこむ。
「お前と一緒に俺は逃げる」
「うん」
「どこまで逃げていいのかわかんねえけど、ついてきてくれるな?」
「うん、行く! ゴローのいるとこならどこへでも行く!」
 ああ! もう抱きしめてえ!
 でも俺はそんなことはしない。冷静な俺!
 ずーっと、後になって気がついたことがある。俺はこの時、すげえガキだったんだ。こ
んな狭い国のどこへ逃げたって、結局捕まるってことだ。本当は気づいていたのかもしれ
ない。日本中で起こっている犯罪の容疑者は必ず逮捕されてんだ。しかも二人ずれで逃げ
るんだ。逃げ切れるわけねえよな。
 でもさ、俺はこの時逃げようと思ったんだ。
 自分たちの未来は、自分の力で切り開かなくちゃなんねえ。誰も助けちゃくれねえ。幸
せになりてえなら、みずから動くしかねえ。そやって生きてきたんだから。
 リュックを出して中身を詰めようと考えたが、よく考えたら持ってくもんなんて、なん
もなかった。考えてみりゃそうか。とりあえず財布と通帳あたりを取りそろえる。
 金は必要だよな。あんまないけど。
 一通り確認して、飯を食いに食堂へ降りていく。
 安延さんは……たぶん察してたんだろうな。さっき話したこともある。俺のことなんて
たぶん俺より知っている。どうするかなんて、あらかた気づいていたに違いない。
 それでもいつも通りご飯を盛りつけて、いつも通りお小言を言い、いつも通り味噌汁を
椀によそってくれた。
「残したら呪われると思いな」
「「はーい」」
 双葉も馴れたもんだ。温かい飯を腹にかっこむ。
 きれいに食べ終えて、双葉が食器を片づけている時のことだった。階段を激しく駈け下
りてくる音が聞こえる。足音でわかる。あの二人だ。
「五郎!」
「五郎さん!」
 八幡先輩に賢三。しかしその顔に緊迫した表情が張りついている事にかがつき俺は席を
立つ。
「なんか、外にいた奴らが動きだしました!」
「まずいってことでいいよな?」
 固い顔つきで賢三は頷き返す。
「門前は俺たちが何とかする。お前は裏でもどこでもいいから、とにかく逃げろ!」
 八幡先輩は思いっきり腕まくりをすると、力瘤に筋肉をみなぎらせる。
 賢三は食堂についている非常ボタンの横にもう一つあるボタンに手をかける。
 全室に取り付けられた、全員集合のアラームボタンだ。
「待ちな! これ持って行きなさい」
 安延さんが、おにぎりを銀紙に包んでくれていた。
「それから、裏はダメ。道になりそうなところは、全部抑えられているから」
 安延さんの眼は爛々と輝きを増す。
「特高はいつだって、あたしたちの裏を突いてくるのよ」
 と、特高って! 安延さんいくつっすか!
「いい、五郎も双葉ちゃんも玄関の物陰に隠れなさい。私がゴーサインを出すまで出てき
ちゃだめよ」
 有無を言わさず、安延さんの言葉に俺も双葉も頷いた。
「よっしゃあ! 寮祭で使う神輿だしてきな!」
 安延さん総仕切りで、物の五分とかからず神輿が組み立てられる。
「行くぞー! やろうども!」
 玄関前に、駐車場、付近の道には寮生たちが神輿を担いでぞろぞろと飛び出す。玄関前
はある種の完全防壁が出来上がっていた。
「なんで攻めてこないんですか?」
 神輿の下に隠れた俺と双葉は神輿の横にいる安延さんにそっと聞くと、にやりと笑って
返す。
「相手は機動隊じゃないってこと。武力制圧は大々的にできないのよ。自衛隊ってのは。
だから人数がほどほどに多ければ、逆に手出しはしてこない。しかも私たちは表門を守っ
ているから、裏口に奴らは殺到してくるでしょう。気がついてこっちに来たって、もう遅
いわ。それー! 行くぞ!」
 盛大にワッセ、ワッセの掛け声が寮の外から商店街へと続いていく。
 自衛隊員は歯噛みしているに違いない。
 しかしここからだ。ずっとみんなについてきてもらうわけにはいかない。どうする?

 神輿は商店街を抜け、甲州街道に差しかかる。そこまで来たところで、見たことのある
車が停車している。
「はやく乗りなさい!」
 自動の開閉窓が開くとそこから君子が顔を出した。
「あとたのんだよ!」
 安延さんは君子にウィンクをすると君子もにっこり笑って返す。
 何の事かもわからず為すがままに俺たち二人は車の中に飛びこむと、
「松岡!」
「へい!」
絶妙なタイミングで松岡さんがアクセルをベタ踏みして急発進。タイヤは空転する事もな
く、アスファルトをがっちりとらえて車は急発進した。
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