第三章 観念迷宮 B


 ギリッと君子が奥歯を噛む。
「どんな方法をつかっても彼女は死ななかった。人が死に至るプロセスを考え、その中か
ら致死率の低い順に彼女に実験して行ったが、次の日には双葉はけろりとしていたよ。も
ちろん、最初の段階で出血多量でも死にはしなかったのだから、それを考慮に入れながら
だったけどね。どんなに大量に血を抜いても双葉は痛がるだけで死にはしない」
 珍しいものを見つけた子供のように嬉々として語る犬養。
「毒物も試してみたが、一晩中うめき続け苦しむだけでやはり死なない。致命傷となる個
所に傷をつけてもすぐに蘇生する。思いきって身体を切断してみたが、それでも解体され
た切断部を一緒にしておけば癒着し、切り離しておけば再生する。もっと凄いものは……」
「ふざっけんな!」
 体中の血が逆流するって表現がわかった。俺の血管の中の血は爆発しそうな勢いで逆流
していた。腹の中にわだかまるような痺れが吹きだまる。
 それと反比例するように高揚して話していた犬養の身体からすぐさま熱が引いていく。
「……っ……っ」
 双葉の震えが、恐怖から嗚咽に変わっているのが痛いほどに伝わって来る。固く瞑られ
た目からポロポロと涙をこぼしながら双葉は俺の背中に顔をうずめて嗚咽を噛み殺そうと
必死で我慢している。
「てめぇ、うちの双葉になにしてくれんだ!」
 飛び出した身体は感情に操られるように動かす。握りしめたこぶしは鉄パイプ爆弾の恐
怖なんて微塵も感じない。
 が、しかし……。
 パンっ!
 室内に響き渡った何かの破裂する音。すぐに鼻を突く硝煙のかおり。俺の身体は向かっ
ていたベクトルとは逆の方向に吹き飛ばされていた。だから俺はその時、何が起こってい
るのか全く把握できていなかった。
 ただ感情の操り人形になっていた身体は、糸が切られたようにだらりと弛緩して立ち上
がる事もできない。
 やっと認識できたのは犬養の手に握られた拳銃を見て初めて自分の身体が血を噴き出し
ていることだった。
 あの路上襲撃事件で奪われた警官の拳銃だった。
「うごくなと言っただろ」
 左手に持ち替えた鉄パイプ爆弾を弄びながら、冷静な眼差しで見下してくる。
「こっちはできれば使いたくないんだ。私も死にたくはないからな」
 そう言って左手の中で鉄パイプ爆弾をくるりと回しながら続けようとした時だった。
 室内にいくつもの足音が響き渡る。
 俺は犬養の仲間が踏み込んできたのだろうか……もう、ここまでなのだろうか……そう
思った瞬間、犬養の身体が窓枠の向こうに消えた。
 飛び降りたのだ。
 そして、踏み込んできたのは他でもない、垣崎という刑事だった。
 彼はすぐさま、犬養の消えた窓枠から下を見おろし、下に向かってどなりつける。
「工場の屋根をつたって逃げた! 包囲しろ!」
 外から返答する声が聞こえる。たぶん垣崎の仲間の刑事なのだろう。
 垣崎は後を追わない。追っても無駄と判断したんだろう。
 双葉が泣きながら俺の傷口を抑える。痛みが少しづつ引いていく。それでもだいぶ血を
流してしまった気がする。頭がぼんやりした。
 虚ろな顔をした俺に君子が駈けよってくる。
目を開けていると頭がぼんやりするせいか、俺はその君子の姿を最後まで追えず、目を閉
じる。
「……バカじゃないの?」
 なんだよ、いきなりそこからか? 安否を心配する言葉とかでねえのかよ。俺の耳に降
ってきた言葉はいつも通りの罵倒だ。
「なんであんたが突っ込んでいくのよ」
 続けざまに君子は怒るように俺に言い放つ。
「あんたみたいな鈍亀がのっそり出てったってね、そんなの撃たれるに決まってんじゃい
の。あたしの方が運動神経がいいんだから、あたしに任せておきなさいよ」
 やっとこさ、目も開けられずだが、俺は声を振り絞る。
「あのなあ……俺、男だぞ。そんな、毎度毎度……君子に助けられてたら……恥ずかしく
て……失踪するぞ……」
「あんたが逃げたって、絶対にとっ捕まえて帰って来るんだから!」
 はあ、奴隷ですもんね。
「それに、俺はあいつを殴りてえんだよ。ぜってえ……殴んなきゃ気が済まねえ」
 見えなかったが君子が頷いたのがわかった。
「……双葉……わりいなあ……絶対あいつ殴ってやるからな……お前にひっでぇこと……
したやつは……ぶん殴ってやるからな」
「うん……うん……」
 双葉が抑えてくれた傷口がゆっくり閉じて行くのがわかる。
 誰かの足音が近づいてくると俺の頭上で止まった。たぶん垣崎だろう。わざと傷に響く
ように言ってるんじゃないかと疑わしくなるような強勢を張った声が降ってきた。
「はやく病院へ行け!」
 なんで命令なんだよ。でもこれだけは確認しねえとな。
「なあ垣崎さん。あんたらずっと外で聞いてたか?」
「……ああ」
「じゃあ、双葉の疑惑はもう晴れたろ」
「…………」
「おい、聞いてたんだろ? なあ、晴れたろ。もう双葉は関係ないよな!」
 痛む傷なんて関係ねえ。ここでちゃんと聞いておかなければならねえ。
「なあ、もう双葉関係ねえだろ!」
 しかし垣崎はしばらく返答せずに黙っていた。それから徐に
「……隊が気づいている」
 と言った。
 なにを言っているのかさっぱりわからなかった。なんだよ、隊ってそれって……。
「自衛隊だ。もともと公安も双葉にそこまで嫌疑をかけていたわけだはない。我々の捜査
では限りなく白。関わっていたとしても、なにがしかの形で利用されている、と言うのが
見解だった。しかし上が何故かひどく双葉の確保を要求してきたのだ。もしネタが上がら
ないのなら別件逮捕でもかまわない、そういう勢いだったんでな。ずいぶんおかしい話だ
と思ってはいたが、昨日お前たちから聞いた話が本当ならと思い、組織内……警察庁、警
視庁からの情報を集めた結果、裏で自衛隊が絡んできている事だけはわかった。それ以上
の情報はない。せいぜい気をつけるんだな」
 そういうと垣崎は身をひるがえして部屋から出て行ってしまった。
 呆然と見送った俺たちは、たった今聞いた情報を吟味する。
「ねえ、五郎。これってさあ」
「……ああ」
「たぶん、双葉の能力に気がついて犬養以外の人間が、狙ってるかもしれないってことだ
よね」
「………ああ」
「それが自衛隊ってことだよね」
「…………ああ」
 どんどん先細りになっていく俺の返事に双葉がしきりに心配そうな顔をする。
 駄目だ駄目だ。俺がそんなんでどうする。
 俺は双葉の目を見かえす。
「しんぱいすんな。俺が何とかする」
「うん!」
 まぶしいと思ってしまうほどに、目を細めたくなるくらいの笑顔だった。
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