第三章 観念迷宮 A


松岡さんの運転する黒塗り高級車が細い路地を通り抜け、住宅街の真ん中に停車する。
 しかし実際車を降りて見回してみると、一戸建て住宅よりもアパートの方が目につく。
中野の駅から歩けば二十分はするだろう場所。昼日中は生活音も途絶えたように閑散とし
ていて、人の住んでいる香りがしない。
 おそらくは学生の街、というよりは労働者たちが住んでいる街なのだろうとは思う。今
の時間はみな仕事に行っているのだろうか、または夜勤から開けて帰ってきた者がつかの
間の休息をとっているに違いない。
 静けさの中に身を潜め、ゆっくりと一呼吸する。
「お譲、今回ばかりは事情はどうあれ、あっしもついていかせてください」
 松岡さんが車の中から物音もさせずに滑りだしてきた。
 君子はしばらく困惑するような顔をしていたが、最後に俺の顔を見てくる。なんで俺な
んだよ?
「お願いしよう。革命運動家のアパートって武器とか隠し持ってるんだろ? それにあの
爆弾作ったのだって、犬養たちなんだからよ。その方がいいんじゃねえか?」
 俺にたしなめられてか、君子は松岡さんに向き合うと「じゃあ、お願い」と一言告げる
。松岡さんはといえば、平然と「かしこまりやした」と言っただけだった。
「双葉、行こうか」
「おう、行こう!」
 双葉に先導されて俺たちはさらに細い路地の中へとはいっていく。人間すら横になって
歩かなければ通ることもままならないような家々の隙間は、やはり警察の眼を意識して選
ばれているのかと疑いたくなる。こういったところは値段も安いだろうし、要塞としての
機能もあるってこだろ? よく考えてるな。なにがしたいんだよ。
 ようやく、ついた場所は赤さびだらけの鉄階段がかかる、とても賃貸とは言えないよう
な建物であったが、しかし各部屋わけがされるように五つ並んだ扉を見れば、それがアパ
ートなのかと思えなくもない。
 何かの燃えるような臭いが風に交じっている。火事ではないだろう。この臭いはたぶん
工場などで何かを燃やしている臭いだ。たぶんこのアパートを挟んで向こう側に工場か何
かがあるのだろう。
 人の住む場所じゃない。と一般的には言われるのだろうが、それでも人はどんなところ
でも暮らしていけるものだ。
 鉄階段を音を立てないようにそっと登り、双葉が指し示す部屋の前までやって来る。
 そこで松岡さんが先頭に立ち、自分が確認する、というような手ぶりをする。
 俺たちも無言で頷き返すと、松岡さんはそれを確認しドアの前にしゃがみこむ。
 そして懐から糸のように細い針金を取り出した。
 おおっと! 出ました! 鍵をあける気だな!
 でもそれって、なんかヤクザっていうより……泥棒?
「…………」
 松岡さんはしばらくそのまま鍵穴と格闘し、そして徐に穴から針金を抜き取る。そして
小声でそっと結果を報告する。
「鍵がかかっていやす」
「……………………」
 うん、それはそうだろうね。
 全員、沈黙した。
「………………え? それだけ?」
 君子がその後の展開を話さない松岡さんに痺れを切らし、聞き返した。
「はい」
「え、え? で、開けたの? 鍵」
「いえ、そんなことはできやせん。自分は泥棒ではないんで」
 確認しただけかい!
 と大声で突っ込んでやりたかったがそういうわけにはいかなかった俺と君子はジェスチ
ャーだけで、巧みに無音突っ込みをするしかない。
「では、中に入りやすんで、皆さまご覚悟はよろしいですか?」
 いやちょっとまて。松岡さんさっき鍵は開けられないって言ってたじゃん。
 当惑する俺たちなんか差し置いて、覚悟はよろしいですか?の返答も聞かずに松岡さん
はドアの前に向き直ると態勢を低くして身構える。
 ちょっとそれってもしかして………。
 バッキャーン!
 木製ドアが俺たち三人の眼の前で粉になった。
 間違いなく君子にあの蹴りを教えたのは松岡さんに違いないと思った。
 君子が俺を全治三カ月に追い込んだあの蹴りの十倍の威力をもって、周辺に大轟音をま
き散らしながらドアは粉々に消えていった。スローモーションに見えたのは過去のトラウ
マが脳裏に甦った俺だけだったのだろうか?
「行きやす!」
 松岡さんを先頭に君子がその後を追う。俺はすぐに現実に引き戻り、双葉の手を引いて
中に侵入する。
 玄関から入ってすぐに板の間がある。水道がついているところを見れば、ここは一応台
所と言うことだろうか。その先にある襖をあけると意外にも広い畳の間。そしてその向こ
うにもまた襖。思っていたよりも室内はかなり広い。たぶん幾人もで共同で暮らしている
のだろう。
 構わず土足で俺たちは次の襖に手をかけ、開けた瞬間……。
「そこまでだ」
 長身に切れ長の目。そしてこっちの身体がすくみあがるような威圧感。
 間違いない。前に君子と行った喫茶店に双葉を連れてきたあの男。
「双葉、戻ってきたのか?」
 細い眼をさらに細めてにやりと笑う。双葉は怯えるように俺の後ろに身を隠す。
「……あれ……犬養」
 双葉のろうそくが消え入りそうな声に、俺たちは長身の男……犬養に向き直る。
「先に言っておくぞ。これがなにか説明は必要か?」
 犬養は直径15センチはありそうな鉄のパイプを右手に持ってみせた。
 まさかとは思った。しかし、たぶんそうなのだろう。
「鉄パイプ爆弾だ。中身はこの前の電車事故で知っているだろう? まあ、もちろんあれ
より燃料が少なくはなっているがね」
 得意げに彼はあの様子を思い出すように嬉々と笑った。
 頭おかしいんじゃねえの?
 犬養は鉄パイプ爆弾をおもちゃのように手の中で遊ばせながら窓の縁に坐る。
「……とはいえ、追い詰められているのは私も一緒だ」
 ヘラっと顔で笑いながら、その身体の周りにはいまだに近づく者をすべて食い殺してや
る、というような威圧感をはらんで対峙する。
 でもさあ、恐いつったって、俺にはやんなきゃいけない事があるだろ。こんなの想定ず
み……とは言わないけど、それなりに覚悟はしてきたつもりだ。
「話し聞かせろよ。その話次第だ」
 たぶんしっかり声は震えていた。だって怖いだろ!
「……ほう、ガキが交換条件か」
「おい、話すのか? 話さねえのか?」
 俺がズイッと踏み込む。と同時に犬養は笑い顔を消して目だけで俺の動きを封じる。ほ
んとだぞ。目ん玉動かしただけで、俺動けなくなっちまったんだよ。蛇に睨まれた蛙って
やつだね。
「なにが聞きたいんだ?」
 乗ってきた。交換条件と言えるかどうかはわからない。俺だって逃がすつもりはなかっ
たが、相手は鉄パイプ爆弾をもっている。だからここは聞き出すべきことを聞き出さなけ
りゃならない。
「双葉を利用したのはあんただな」
 動かない。間を開けて犬養が口を開く。
「そうだ」
「なんで双葉を利用した」
「お前も気がついてるだろう。双葉は死なない。どんな事をしてもだ」
 おい、どういうことだよ……どんな事をしてもって。
 俺の背中に寄り添う双葉の震えが伝わってくる。
「我々大赤色革命軍はすぐに使える武器が必要だった。この帝国主義と資本主義が蔓延る
国において、人民が平等に生きるためには革命しかありえない。そして我々はその革命を
最も平和的な解決方法で進めようと幾度も政府と言論という武器で戦おうとしたが、それ
らは徒労に終わった。我々大赤色革命軍は最終手段も厭わない覚悟で、最後の戦いを国家
とするつもりだ。それは街に対して武器をもってゲリラ戦を行い、国を維新へと導くとい
う構想だ。しかし我々にはゲリラ戦をするための武器がない。早急に武器を手に入れる必
要があった」
 それが路上襲撃事件なのだろう。
「しかし我々はその襲撃の際、一人の戦士の殉死と引き換えに双葉を手に入れた。我々の
アジトに双葉が来た時には、彼女は既に出血多量で死んでいてもおかしくない状態だった

「なんでそんなことわかるんだよ?」
「わかるさ。俺は医師免許を持っているんだから」
 こいつが? 医師?
 医者がなにやってんだ。
 最終手段?
 ゲリラ戦?
 武器が必要?
 そんなの医者のやることじゃねえだろ。医者は人を殺す者じゃねえだろ。
 俺の背中に伝わる双葉の震え。こいつは……。
「てめえ……双葉になにをした?」
「なにを?どういうことかな?」
 どんな事をしても。
 つまりそれは……。
「双葉を実験台にしやがったな!」
 つまらないものでも見るように俺の顔を眺めながら犬養はあっさり返答する。
「ああ、したよ」
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