第二章 追跡者は眠らない B


夕方になると電話ボックスの中に入って十円玉を投入しダイヤルを回す。すぐに電話口に
寮母さんが出た。
「はいはい」
「大貫です」
「ん?」
「……五郎です」
「ああ、五郎かあ。どうしたんだい?」
 もう、なんで憶えてないの、俺の苗字?
「賢三帰ってますか?」
「ああ、幸田君ならここにいるよ。かわるかい?」
「お願いします」
 賢三は苗字で呼ぶわけね。なんで?
すぐに賢三は電話にかわる。
「五郎さん、どうかしましたか?」
「ちょっと頼みがあって」
「はい?」
「前に話してた警報機? みたいなやつ、あれ使える?」
「ああ、音波発信機ですか。まあ、使えないことはないですよ」
「あるだけ寮の周りに取り付けて欲しいんだ?」
「ええ……結構大変なんですよ、あれ」
 明らかにめんどくさそうな声色が返ってくることは予測済みだ。そんなわけだからこっ
ちも秘策を使わせてもらう事にする。
「……双葉と君子のためなんだ」
「一時間で全て取り付けまっす!」
 賢三の人生ってなんだか楽しそうだな。電話ボックスから出ると外では君子と双葉が戯
れている。なんだ結構仲いいんじゃないか。遠目にそれを見つめながら、ビルに掛かる時
計に目をやる。一時間か。もう少し時間を潰す必要がありそうだ。
「おーい、君子、双葉。ちょっと時間潰すけど、どうする?」
 振り向いた君子が手を打つ。
「一度うちに寄りたいんだけど」
「なんだ? なんか用でもあるのか?」
「下着も替えたいし、着替えも欲しいのよ。着の身着のままのあんたと一緒にしないでよ
ね」
 ああそうですか。洗ったものそのまま着るような生活じゃないもんな、お前さんは。

 俺達は駐車場に直立不動で待つ松岡さんの姿を見つける。
「松岡、一回うちに帰るわよ」
「へい」
 滑らかに走り出した高級車は一路代田橋へと向かう。国道から細い路地裏に入り、路地
裏を抜けると軒を連ねる住宅地の中に忽然とお屋敷が現れた。
「こ、これが……」
 おどろいたぞ。書院式の日本家屋。こういう家に住んでいる人間といえば政治家か、大
会社の社長か、または……。
 車は敷地内に入っていく。玄関の前に車が止まるとドアが開く。
「お譲、おかえりなさいやせ!」
 羽織を引っ掛けたお兄さんたちの大合唱。まるで、いい旅館にやってきたかのような気
分。そう、お兄さん達の人相さえ見なければ。
 そうなのね、やっぱり君子んちはそうなのね。
「着替え用意してくれる」
「へい」
 君子の指示に一人が走り出す。
「あのぉ、俺達は?」
 俺の控え目なアピールに君子は一瞥くれると、近くにいた使用人(?)に
「ああ……それ、うちの学校のだから、適当に相手してあげて」
 おい、君子! 適当にとはなんだ?
 サングラスのお兄さんが奥の応接間に通してくれた。応接間とはいえ、俺の部屋の三倍
はある大きさだ。
「そこへお座りください。すぐに茶でも用意いたしやす」
 俺と双葉は横長のソファに腰を下ろす。尻が溶けてしまいそうなほど柔らかく沈み込む
すわり心地には驚いた。こんなイスが世の中にあるのか。すぐに室内に何人かが入って来
て俺達の目の前にお茶と茶菓子が並べられる。
「伊勢は亀山市から取り寄せました亀山茶の新茶で御座います」
 なんだかわかんないですけど、すごそうですね。
「あ、あの、俺達は君子の言うとおり適当でいいですから」
 俺は恐縮してしまって謙遜の言葉を言ってしまう。
「いえ、そういうわけにはいきやせん。お譲が適当に、というからには、それ相当のもて
なしをしろということなんで」
 そうなのか? まあ、家の使用人だ。俺なんかよりも君子のことはよく知っているに違
いない。
「ゴロー、なんだこれ? おいしそうだぞ」
 双葉は目をキラキラさせて美しく造形された和菓子を見つめている。
「ああ、俺だって食ったこと無いよ。どうしたもんかな」
「食っていいのか?」
「………」
 俺は周りを見回す。使用人たちは部屋の隅で微動だにしない。
いいのか? 食べていいのか俺達は? いや、食べるために出されているには違いない。
しかし、どのタイミングで食べていいものなんだ? 茶道なんて知ったもんじゃない。い
やいや、これはただのお茶なんだから、気にせず食べるべきだろう。
なんて思っていたら、俺の心配なんぞいざ知らず勝手に双葉はパクンと口の中に和菓子を
放り込む。
「おま……双葉」
「ゴロー、うまいぞ。これ、もう一つ!」
 こら、双葉、勝手に食った上にもう一つとは何事だ!
「へいかしこまりやした」
 使用人のお兄さんはそういうとすぐに次のものを持って帰ってきた。
「ゴローは食べないのか?」
「俺は胃がすくみあがってとてもそんな気にはなれん」
「そうかあ。じゃあ、あたしが食べるぞ」
 俺の返答なんか聞かずに双葉はさっさと俺の目の前の和菓子も平らげてしまう。このと
きばかりは双葉の神経が羨ましいよ。
 喉がひりひりするのでとりあえず、その高そうなお茶を口にするもののただの苦いお茶
だった。まあ、俺にゃ高級低級の差はわからんということだな。残念な事に。
「ちょっと、五郎なんかにそんな高級なお菓子やお茶出したって味が解るわけないじゃな
い。水道水でいいのよ、水道水で」
 そこには腕組みをした君子が立っていた。おまえ、水道水って……。
「お茶請けだって角砂糖でも出しておけば喜んでるのよこいつは」
 いや、それはさすがに……ないなあ。
「おい、君子」
「なによ?」
 不機嫌そうな顔で見上げる君子に一言いってやろうかと思ったが、それはそれで怖い。
しかしながら、俺だって負けん気が強い。そう簡単には折れない。
 だから俺は攻める方向性を変えて奇襲攻撃をかける。
 ふと君子の姿に目をやれば普段着に着替えていて、ミニスカートにブラウスとシンプル
に着こなしながら、その上にグレーのカーディガンを羽織りシックないでたちだ。
「なによ? 文句あるの?」
「きれいな服だな」
「あ、そ、そ、だから、なんだって言うのよ」
「よく似合ってる」
「っ!」
 絶句する君子。
ふはははっ!
お前が褒められなれていない事など、こっちは了承済みだ!
 焦るがいい、おどけるがいい。もちろん似合ってないのに皮肉で言っているのではない
。実際似合っているのだ。嘘もついていないし、君子は焦るし、俺は楽しい。最高だ!

「どっせい!」
 と調子に乗っていた俺の鳩尾に、なぜか正拳突きが入る。もちろん君子の繰り出したも
のだ。うかつだった……。
「おお〜」
 横で手を叩く双葉。
「お譲、中心線の急所に対して斜め上からねじり込むように打った方が効果は倍増いたし
やす」
 なにレクチャーしてんだ、使用人。
「急所を外しただけよ」
 いや、鳩尾は急所ですから。
 のた打ち回る涙目の俺に別の使用人が近づいてきて、
「お譲は洋服を褒められた事を喜んでいるご様子で御座いやす」
 とそっと耳打ちした。
これのどこが喜びの表現方法だ! 間違ってる! 何かが間違ってる!
「ほら、出かけるわよ。いつまでもそんな所に寝てんじゃないわよ」
「寝てんじゃないぞー!」
 おい、双葉が変な言葉覚えるからあまり妙な発言は控えてくれないか?
 君子は回復していない俺を引きずって再び車に乗り込む。常勝館へ向かう中、話すこと
のできない俺を双葉しばし観察していた。見ないでくれ、こんな姿。
「ねえねえ、君子」
 双葉が何かを思い出したように君子に話を振る。
ああ、そうしてくれ。今の俺にはお前の質問に答えてやれる気力もエネルギーも残ってい
ないのだから。
「なに?」
「今日のあの二人……」
 たぶん喫茶店にいたカップルの事だ。まだ気になっていたのか。
「私と結婚する気があるのー、って言ってたけど、どういうことだ?」
 ああ、そんな話してたね。周りの人間なんて全く気にしてなかったからねえ。なんだろ
うねえ、あれは本当に……。
「そのまんまの意味よ。結婚する気があるのか、ないのかって事よ」
「結婚ってなんだ?」
「え?」
 君子が言いよどむ。確かに結婚とはなんだ、という事を説明するには多分に大人力を求
められる質問であることは確かだ。
「五郎に聞きなさいよ、そういう事は」
 って、おまえ! そこで俺に振るのか。
「ゴロー、結婚ってなんだ?」
「……ああ、そうだな。赤の他人同士、これから一緒に暮らしましょうってことかな」

「ふーん、じゃあ双葉とゴローは結婚してるのか?」
「いや、全然していない」
「でも常勝館に一緒に暮らしてるぞ」
「う〜ん、ちょっと意味合いが違うな。それに昨日の今日を、暮らしているとするのもど
うかと……」
「じゃあ、ゴローと君子は結婚してるのか?」
「そ、そんなわけないでしょ!」
 早押しクイズでもしているかのような反射神経だ。そんな全力で否定されたら悲しくな
るじゃないか。別に期待なんかしてないけどさ。
「君子は昨日、泊っていっただけだ。普段はさっきのお屋敷に住んでいるんだ」
「じゃあ、ゴローは誰と結婚しているんだ?」
「俺はまだ結婚はしていない」
「なんで?」
「いいか。結婚は好きあったもの同士が一緒に暮らすんだ。好きでもなく一緒に暮らして
いるのは、ただの同居というだけで結婚ではない」
「深いなあ」
 深いだろうか?
「双葉はゴローのこと好きだぞ。これで一緒に住んでいるから結婚じゃないのか」
 おっと危ない、危ない。
落ちちゃうぜ、うっかり勘違いしちゃう所だったぜ、お・れ。
 君子がこっちを睨んでいる。何もしませんよ。俺だってそれくらい判断つきます。大丈
夫、不埒な事なんて考えてませんから。
「双葉のいう好きとはちょっと違うんだな」
「え、違うのか? そうなのか?」
 君子に確認するように聞く双葉。君子は何も言わない。俺に全部説明しろってことか?
「いいか、双葉の好きは友達とかに対する好きで、恋人や夫婦のための好き、とは違うん
だよ。昨日今日会って、いきなり好きになるなんて事はないんだよ」
「どうかしら?」
 君子は車窓を眺めながら意地悪く笑う。おまえ根に持ってるのか? あのときのことを
まだ根に持ってるのか……。
「と、とにかくだな。いつまでも一緒に居たい。いつまでも二人で暮らしたいとお互いに
思う男女が、お互いの意思を確かめ合って一つ屋根の下で暮らすのが結婚だ」
「そうか、お互いの意思が重要か」
「そうだ」
「ゴローは双葉のことが嫌いか?」
「いや」
「好きか?」
「ああ」
「じゃあ、結婚しよう!」
 待て待て待て待て! だから……。
「いいか、双葉。結婚するってのはそれなりに覚悟が必要なんだ。それはもうたいへんな
覚悟だ。一生だぞ。一生二人でいよう思えないと、そんな事簡単に口にしちゃいけないん
だぞ」
「うん。一緒に居たい。双葉はゴローとずっと一緒にいる」
 まずいぞ! 大貫五郎、陥落寸前だ! 救護班、補給兵、はやく増援を! もう……も
う、白旗を揚げるしかないのか。
「お譲さん、答えをいそいじゃいけやせんぜ」
 それは運転席から背中で語りかける松岡さんだった。
「何でもじっくり考えてみる事です。相手さんのいいところ、わるいところ、時間をかけ
りゃあ、ゆっくり見えてきます。好きになるってのは、その全部を好きになってやらにゃ
あ、好きになったとは言えやせん」
 松岡さん、あんた、大人だねえ。感動したよ。
「そうかあ。悪いところもかあ。ゴローの悪いとこってなんだ?」
「惚れっぽいとこよ」
 こらー、君子! それは言うなって。武士の情けって言葉があるだろうが。
「そうなのか?」
「……あ、ああ、そうだよ」
「そうかあ、惚れっぽいのか。じゃあゴローは双葉に惚れたか?」
 聞くか普通? 俺が答えに窮していると松岡さんが
「着きやしたぜ」
 車はいつの間にか寮の敷地内で停車していた。いろいろナイス、松岡さん。ずっと車窓
を眺めていた君子がさっさと外に出て、俺と双葉が後を追うように車外へ飛び出す。
「じゃあ松岡は今日は帰っていいから」
「大丈夫でしょうか?」
「任せなさいって」
 自信満万にいう君子に、不承不承、彼女の身を心配しながら松岡さんは敷地を後にした
。さて、ここからである。俺達が玄関に入ると八幡先輩が待っていた。
「おう、話は聞いてるぞ。賢三が部屋で待ってる。あれの設置はもう終わってるしな」
「ありがとう御座います」
 俺達は賢三の部屋へと急ぎ向かうことにした。
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