第二章 追跡者は眠らない A


新宿へつくと西口で下ろされる。近くの駐車場で待つと言って松岡さんは車を出す。俺達
はとりあえず昨日の喫茶店へと脚を傾ける事にした。中に入らないにしても、様子を見て
おいたほうがいいだろう。もしかしたら、昨日の誰かがいるかもしれない。そしたら君子
の出番だ。ひっ捕まえて、話を聞きだしてやればいい。
「それにしても……」
 俺は新宿の町並みを見回す。
「人がいないなあ」
「昨日の今日だからね」
 まあそうだろう。俺が使っている私鉄は完全に復旧に負われて、未だに電車は動いてい
ない。あんな大きな事件が起きた次の日なのだ。やはり大事をとった高校側は休校になっ
たり、会社などによっては休みを取った社員なんかもいるに違いない。そんな時にわざわ
ざこんな所に出てくる物好きはそうそういない。歩いているのは仕事の外周りの人間とか
ばかりで、遊びに出歩くようなやつはいないようだ。
 あの事件の影響はやはり大きいのだな、と改めて実感する。まさか自分があれに巻き込
まれたなんて未だに嘘のよう感じる。
 ふと昨日、血が噴出した額に手を当ててみる。傷口はおろかかさぶたすらない。しかし
昨日確かに俺は怪我をした。あれは幻覚でも夢でもない。間違いないのだ。
 ではどうして傷がなくなっているのか?
 やはり何も解らない。
結局新宿についてからも双葉の質問は止まらず、あれはなんだ、これはなんだとしきりに
聞いてくる。
「ゴロー、あれはなんだ?」
 どうでもいいが、たまには君子にも聞いてくれ。質問に答えすぎて喉が枯れてきた。
 そうこうするうちに、問題の喫茶店が見えてきた。
「あれ?」
「どうした、君子」
 君子の視線の先を見てなるほど、と思った。店の入り口に『本日休業』と書かれた札が
釣り下がっていたのだ。
「そう来たか」
 どうやら、ここのマスターもグルってことが考えられる。可能性はいろいろ考えられる
が確かめようが無い。
「さて、どうする?」
 君子はあっさりと捜査を断念した。まあ、確かにこれ以上ここにいても仕方ない事だけ
は確かだ。
「とりあえず、どっか店に入ろう。喉がからからだ」
「それはあんたが双葉の質問の答えに必要以上の言葉を要しているからでしょう。そんな
の自業自得じゃない」
 くっ! お前というやつは人を労わる心はないのか? ズンズン行ってしまう君子を追
いながら双葉の手を引く。放っておいたら今度は猫でも追って路地裏に消えてしまいそう
だ。
「ゴローの手はやっぱりあったかい」
「え?」
 双葉は俺の聞き返しなんか聞こえていなかったのか、そう言ったきりニコニコしていた

 別にいいけどさ。手握って嫌な顔されるよりかは。
 でもなんだろう。おそらく初めてくらいに女の子の手を握って歩いているはずなのに、
この色気のなさは……。
 時折君子は後ろを振り返ってこちらを見る。
「ちゃんとついてきなさいよ」
 と言ってまたプイッと前を向いて足早に先に行ってしまう。
「ここでいいでしょ」
 そこは昨日入った安いのだけが取柄の喫茶店だった。君子は俺の顔なんか見もせずに中
に入っていく。なんだなんだ、結局お前だって喉渇いていたんじゃねーか。
 店内は昨日に比べてやはりお客はほとんどいない。カップルが一組とそれからいま入っ
てきた俺たち三人だけである。
「もう、私のこと好きじゃないの?」
「そんな事はない」
 って、おい、カップル! なにをそんな気まずい話題をこんな所で展開しているんだ。
入り口で唖然と立ち尽くしていると、後ろからサラリーマン風の男がやってきてしまった
ので、俺たちは店の奥へ進んだ。
「いいのか、君子。こんな所で?」
「仕方ないでしょ。こんな所しかないんだから」
 まあ確かに。席に着いた俺達に店員がやってきてアイスコーヒーを三つ注文する。双葉
はカップルの話題に興味津々のご様子で、相手に憚ることなく凝視して聞き耳を立ててい
る。コーヒーがやってきても手を付けずに聞き入っている様子なので、君子とこれからの
ことについて話し合う。
「うーん、双葉が言っていた犬養ってやつを探すにしたって、元になる情報が無さ過ぎよ
。せめて下の名前が解っていたらね。まあ、政治運動家って事ははっきりしているわけだ
けど、うちにいる使用人たちもたぶんそういう奴らには詳しくないだろうし」
 お前んちの使用人って、つまり松岡さんみたいな人たちだろう? まあ、知らなくって
当然か。
「うちの寮にだってそういう政治運動に詳しいやつはいないからな。確かに調べようが無
いな。」
 やはり警察にお願いするのが一番なのだろうかね。
「納得いかないわ」
 頬杖を付いた君子がコーヒーを飲みながら外を見ている。
「何が納得いかないんだ?」
「あいつらよ」
 察しのいい俺は先ほどから別れ話をしているカップルを盗み見る。
「そっちじゃないわよ」
「なに! 違うのか?」
「双葉を喫茶店につれてきたやつらよ。なんのためにつれてきたのかしら」
 そういえば確かにそうだ。何のためにわざわざ双葉をつれてきたんだ? 誘拐目的だっ
たというなら、松原駅に双葉が一人でいたのはおかしい。それとも双葉をつれてどこかへ
向かう途中爆発に巻き込まれて、双葉だけが生き残った、とか。
「まあ五郎の考えそうな事はなんとなくわかるわよ」
 なに? お前エスパーか。
「でもたぶんそれって、どっかで行き詰るわね」
 うん。確かにそれは否めない。既にいきづまっていた。
「おかしいのよね。なんか引っかかるのよ」
 すまんが俺には構図すら見えないよ。
「あいつらは双葉を連れ戻しに来たわけじゃない。ってことは、やつらにとって双葉は重
要な存在なわけよ。ただなぜ必要なのかが解らない。五郎が考えたように誘拐目的なのか
、それとも双葉が知られてはいけない秘密を知ってしまったとか、そういうことなんだと
思うんだけど……どれも行き詰るのよねえ」
 まあな。こいつがなんで狙われているのかは全くわからない。もしかしたら双葉自身が
嘘をついている可能性だってある。しかし、嘘をついて俺達といるメリットがどこにある
?やはり行き詰ってしまう。なにより、俺にはこの双葉が嘘をついているようには見えな
い。ダメか? こういう思い込みは?
 そんな双葉に目をやると、砂糖をたっぷりアイスコーヒーに溶かしながらグビリとのみ
こんだ。
 ガムシロップ使えよ。
「なあ君子。ここは一つ……」
 そこで俺は少しまわりに気を使って声を潜める。君子が耳を近づける。
「双葉を囮にしたらどうだろう?」
「何言ってんの?」
 明らかに君子の顔はふざけんなと言っていることはわかる。だがな、
「おい、落ち着け。いいか、このままじゃ埒は明かないし、かと言って昨日も両親と偽っ
てやってきたり寮の外を監視してるやつまで現れた。どれがしか、とっ捕まえて白状させ
ない事にはよ、対抗策だって練れないぞ」
 黙って聞いていた君子は、しばらく考えてからコクリと頷いた。
「どうやって罠を張るの?」
「やつらは寮の場所までわかっている。昨日みたいに松岡さんが居なかったらたぶん門前
に張り付いているはずだ」
「ってことは、寮の中で監視するのね」
「そう」
「でもさ、ちょっと難しいんじゃない?」
「何が?」
「あそこの寮の壁とか結構高いし、死角が多すぎるじゃない」
 そう、墓地やら住宅やらお寺やらがあって、正直あの辺には隠れる場所なんて幾らでも
ある。だから外から中を監視する事は容易だが、中から外を監視するのは困難なのだ。人
数が居ればまだ何とかなる。寮生全員に頼むか?
「いや、一つ方法が在るんだ」
「なによ?」
 俺は周りを見回す。状況はさっきと変わっていない。別れ話のカップルも、涙ぐんでい
る会社員もそのままだ。入り口のほうに目を移すとディスプレーを見て中に入ってこよう
とする大学生の男子っぽい二人がなにか話している。充分に注意しておくべきだ。
「ここでは話さないほうがいいと思う。とりあえず今日は何も考えず店を廻ったりして過
ごそう。もしかしたら双葉が何か思い出すかもしれないし」
「ふほ?」
 急に自分の名を呼ばれて双葉が振り向いて俺の顔を見る。
「なんでもない。今日はあちこち廻ろう」
「うん!」
「ま、しょうがないわね。そうしましょうか」
 俺達は会計を済ませると外に出る。
さてどうしようかな。駅ビルの中には百貨店だってあることだし、地下食材コーナーは見
ているだけで心が潤う。または女の子が二人いるわけだから服屋を回ってもいい。そんな
事をつらつらと考えていると
「なあ、ゴロー」
「なんだ双葉?」
「さっきの二人はなんで別れるとか別れないとか話してたんだ?」
「ああ、男女関係の縺れだろう」
「なにそれ?」
「お互い一緒に居て、段々そりがあわなくなってきたんだよ」
「ほうほう……じゃあ、その前は二人は仲良しだったんだね。何が嫌になったんだろうね
?」
「なんだろうなあ。そればっかは俺にも……」
「ちょっと」
 急に君子が間に入ってきた。
「なんだよ?」
 言いながら気がついて思わず双葉の顔を見る。
「……ほ?」
何故自分の顔を見られているのかわからない双葉は首をひねる。
 驚いた。今朝まで双葉はこんな長い文章を構成して話してなんかいなかった。ワンセン
テンスだけの疑問を発しては、その都度俺が答えていた。それが彼女の発言を妙に幼くし
ている事も確かだった。しかし今の双葉はどうだ? あまりに普通の会話の流れで話すも
のだから、俺だって普通に返してしまった。
「おい、双葉どうしたんだ?」
「どうしたってなにがどうしたの?」
「言葉、スラスラしゃべってるじゃない」
「うん、スラスラしゃべってる。だってみんなもスラスラしゃべるでしょ。なんかおかし
いのか?」
「いや、おかしくはないんだが……昨日までお前そんなにスラスラ話せなかったろ。記憶
が回復してきたのか?」
「みんなの真似してるだけだ。さっきの人たちの会話も聞いてたから、なんとなく話し方
が解ってきた。あたしの言葉ちゃんと通じてる?」
「ああ……通じてるよ」
 でもまて、なんだかおかしなこと言っていないか? 話し方が解ってきたってどういう
ことだ?
「楽しいねえ。人と話しができるって、すっごい楽しいね」
 無邪気に笑う彼女を見ながら、君子がため息をつく。まあ、気持ちは察するよ。
「なあ、君子」
「なによ?」
「双葉ってのは何者なんだろうな」
「あたしにだってわかんないわよ」
 さあて、これからどうするかな。あいつが帰ってきてからじゃないと電話しても意味ね
えしなあ……。
 俺は計画を頭の中で反芻する。人通りの少ない新宿の中でも誰がどこで監視しているか
わかったもんじゃない。大いに気をつけるに越した事はない。
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