第一章 貧乏くんとラジカルさん


「五郎」
 後方からかかる声に若干俺はうんざりしながら、進行方向へ向く足を止める。
 正直に言えば下の名前であまり呼ばれたくない。できることなら苗字の大貫で呼んでも
らったほうが気持ちよく振り向ける。
「なんだよ?」
 教室から出て帰路に就こうとした俺が不機嫌そうにふりかえると、それを上回る不機嫌
顔がこっちを睨んでいた。
「なんだよって、なによ」
「なんだよって、なによ、ってなんだよ?」
 俺も負けない。が、彼女も決して負ける気はないらしい。
「殺そうか?」
「まて、殺すな。馬鹿か」
 結局こっちが折れる羽目になる。いつもこうだ。
 目の前には愛らしい瞳でこちらを見つめる最悪の級友、三ツ谷君子が大また開きに腕組
みで立っている。なんだ、なんかのヒーローのつもりか?
「ちょっと付き合いなさいよ」
「やだよ」
「腕折ろうか?」
「折るな。なんで俺がお前の申し入れを断ったら腕折られなきゃならないんだよ?」
 しばし考える君子。
 考えている姿だけなら君子は絵になる。いや、正確に言うのならば俺以外と接している
時は、こいつは素晴らしい程のお嬢様なのだ。誰もが君子を見て、エレガント、素敵、デ
カダンな魅力、とささやくのだよ。まあ、とはいえこの学校で、君子だけがお譲様なのか
といえばそういうわけでもない。
 何故かと言えば、俺が通うこの学校がまずお坊ちゃま、お譲様の通う難関私立校、大丸
南学園高校だからなのである。
 さて、ではそこへ通っている俺がどこぞのお金持ちの坊ちゃんなのかと言えば、五郎な
んて冴えない名前をつけられる千葉の片田舎の漁村の末っ子。家には未だにテレビもない
。正確に言えば電球が一こぶら下がってる程度で、それ以上電力を消費するとヒューズが
飛ぶのだ。
 わかる? ヒューズ。
 そんな俺がなんでこんなお金持ち学校になんか通っているかと言えば、とにかく家が貧
乏だし、遺産もない。ないないづくしの俺に明るい未来なんてないと確信して、猛勉強の
末、奨学金をもらって東京の目白の瀟洒で閑静で美しい学校に通ってるわけ。
 俺は医者になるのだ。医者になって、派閥のある大学病院をさっさとおさらばして、と
りあえず開業医になって、安定した生活を手に入れる。
安定って重要だよ。そのためにだったら徹底的に努力は惜しまない。一歩引いたり立ちす
くんだりすれば、お先真っ暗なのだよ。
 さて脱線した話を大丸南学園高校に戻そうか。そもそも「ご機嫌麗しゅう」とか「ごめ
んあそばせ」とか「ごきげよう」なんて言葉を躊躇なく使うやつらの中で、俺が浮かない
わけがない。ないない。
 俺の言葉なんて「おっす」「よう」「じゃあ」で事足りてるわけだ。どうもそういった
理由からクラスの奴らは俺を珍獣でも見るかのような扱いで若干の疎外感を感じている。
 そんな学校の鼻つまみ者な俺に話しかけてくれる君子は心優しい淑女かといえば、そん
なことは断じてない。
「俺は忙しいんだ。お前なんかにつきあってる暇はないし、更に言うのならば……」
「あたしに逆らう権利はない、じゃないの?」
 一歩たじろぐ。
俺はこいつに弱みを握られているのだ。弱みを握られて一年、俺は奴隷のような扱いだ。
いや、この高校に来た時点で既に珍獣だったわけだから、それで行けばランクは人間まで
上がっているのだから良しとしよう。
「……よくなーい!」
「なによ、突然」
「いやこっちの話だ」
 落ち着け。落ち着けよ。そもそも俺には悪癖がある。どうしようもない悪癖だ。
 ここだけの話し、何をどう間違ったのか高校に入学して初日に俺は君子に一目惚れした
。しちゃったんだよ。しょうがないだろ。そして、ほとばしる情熱を一週間後に君子に伝
えてしまっていた。体育倉庫裏に呼び出して、思いの丈を伝えると、しばらく君子はポカ
ンとし、それから豹変した。ほんとに豹に変わったのだよ。
 立ち尽くしていた君子は、その場から身体を最小に縮め、今度はその反動を最大値に利
用してバネのように俺に対して垂直の蹴りを加えてきた。
 目の前が真っ白になった。しかし、君子は俺の意識が消える直前で、目覚ましのような
殴打を連発し、最後にしなる鞭のようなキックが俺の左大腿骨をへし折ると、全力で走り
去っていった。
 全治三ヶ月。
高校入学一週間でありえない大怪我を負った俺を、クラスのやつらはどうやら田舎者の凶
暴なやつがいきなり他校の生徒と喧嘩をしたのだと勘違いしていたようだ。
珍獣から猛獣にランクアップである。
それから一年、俺のまわりに寄ってくるやつらは、みんなどこかよそよそしい。俺は恋を
しただけなのに、気がついたら番長になってしまっていたのだ。
 つまりは俺の悪癖というのは惚れっぽいということだ。
すごく惚れっぽい。
情けない事だ。
まさかこんなナンパな人間になるなんて思っても見なかった。歯噛みして涙を流しても足
りない。全くもって情けなさ過ぎて、親に合わす顔がない。
 思い返せば、その兆候は小1の頃にあった。バレンタインデーに貰ったチョコを義理だ
と気づかず、貰った瞬間に恋に落ち、小4になって思いを告げようと遠まわしにその事に
ついて話し出すと、チョコをあげたことすら彼女は忘れていた。
 涙に暮れる俺をその時のクラスメイトが慰めてくれた。
 ああ、そうさ。女さ。女の子さ。そうさ、そうさ、ご想像の通り惚れちまったよ。だが
、悩んだ。数日前まで別の子が好きだったのにもかかわらず、いきなり乗り換えようとし
ている卑怯卑劣な自分にとことん嫌気がさしたのだよ。それから悶々と一年間悩み続け、
そしてそれが若気の至りじゃないことを確かめるためにもう一年間悶々と自分の深層心理
と対話し、六年生の卒業式の日に告白するために彼女の元へ走ると、そこには彼氏の姿が
あった。つまりは思いを告げる事もなく、その恋は春の桜と一緒に散っていったのだ。
 そして中学生となり、同じクラスになった女の子にまたしても惚れてしまう。その後の
経緯は右記に同じ。中学の卒業式に思い切って告白しようとしたら、やっぱり彼氏が居た
のさ。
 わかったよ。俺はこの時、世の真理に気づいてしまったのだよ。
考える時間をとりすぎている間に、女の子はどんどん先に行ってしまうのだ。二年も三年
も彼女らは待ってくれない。すぐさま思いを伝えねばならないのだ!
 と意気込んだ結果が全治三ヶ月だ。どうなっている? 俺はほとほと疲れたよ。
 ……恋、という、やつにさ。
「さ、行こう!」
 俺のセンチメンタルモノローグなんか知ったことじゃない君子はさっさと行ってしまう

 要するに君子が掴んでいる俺の弱みというのは、入学一週間で告白し、後大怪我を負っ
た原因が女の子にやられたという事実なのだよ。
別に番長になりたいわけじゃない。だがしかしだ、女の子にボコボコにされる男、と言う
のはいかがでしょう?
恥ずかしすぎます。言えません、言えません。
女の子に全治三ヶ月の怪我を負わされたナンパな男なんて言えません。そんなことばれた
ら恥ずかしすぎて、おもわず冬の日本海に身を投げてしまいます。
 そういうわけで、渋々君子についていくわけである。
 目白駅に着くと定期券で改札を潜り国鉄に乗って新宿まで出る。平日にもかかわらず賑
やかな街だ。雑多な人種が闊歩する街。ホームレスから学生、ヤクザ。何でも居る。俺は
決して嫌いではない。俺みたいな田舎者がいても、不自然じゃないからだ。
 君子は東口から新宿通りの小物屋へと向かう。何をしにいくんだ?
 小物屋の中は整然と文具やら可愛らしい置物なんかが並べられている。女の子向けのお
店だ。俺にゃ居心地が悪い。
 そうこうすると君子は赤鉛筆を一本手に取りレジへ向かっていった。
「おい、お前はそれを買うためにこの俺を付き合わせたのか?」
 レジから会計を済ませて帰った君子に一言いってやらにゃならない。
「なにか?」
「なにかじゃねえよ。そんなん一人で買ったらいいじゃねえか。ああもう、むしろ学校の
購買部にあるじゃねえか!」
「わかってないなあ。やっぱ殺すか」
 だから殺すなって。
 君子は今買ったばかりの赤鉛筆を紙袋の中から取り出して俺に出してみせる。
 なんも普通の赤鉛筆と変わらないように見える。なに? なんなの?
「ここよ、ここ。可愛いでしょ」
 彼女が指差す先は鉛筆のお尻のところについている消しゴム。招き猫のような造形をし
た消しゴムが付属されている。
もう……なんかどうでもいいや。
「おまえさあ、こんなん使っていけば段々頭がなくなっていって、首なし猫とかになっち
まうんだぞ。気持ち悪いだけじゃないか」
「使わないもん」
「それじゃ消しゴムの意味がないだろう」
「消しゴムは別に持ってるもん」
 お金持ちの考え方はわからりません。何考えてんの? 消しゴムでしょ。消してよ。書
いた字消してこそ消しゴムでしょ。
 ああ、さっさと家に帰って勉強したい。
「さ、次行こう」
「次ってなんだ?」
「喫茶店」
「まて、いやまて。そろそろ言わせろ。俺にはそんな所に行っている時間も金もない。帰
って勉強する」
「コーヒー代くらい出してあげるわよ」
 というと君子は俺の返答なんか聞く気もないとばかりに学ランの裾を引っ張っていく。
下手に抵抗したら学ランが破れるのでは、と感じ取った俺はやんわり抵抗しながら結局引
き摺られていく形になってしまった。
 靖国通りに出て信号を渡る。真っ直ぐ行けばゴールデン街、右は花園神社、左手に区役
所。君子はゴールデン街に入る手前にこっそりと佇むように建っている喫茶店へと入って
いく。
 カランカランと来客を告げると、店内に居たマスターも客も一斉に俺達を見る。
 どいつもこいつもなんだか暗い顔つき。あきらかに俺達なんかよりは年上だろう大学生
とかが屯してこそこそと何かを話している。
 この人たちがどういう人たちなのか、なんとなく、ではあるが俺でも知っている。
学生運動家、労働闘争家……そういった類の人間達だ。
正直な話、彼らのイデオロギーはさっぱり解らないし、解りたいとも思わないが、彼らは
戦争反対とか労働環境改善とか、そう言ったことお題目に暴れまわっている連中だ。
 だが、言わせてもらおう!
そんなん、金のある奴らの道楽なのだ。明日の飯にも困らない奴らが政治やらを憂いて行
動しているんだろうが、こっちは明日の飯にも事欠く状況の中を生きてきたんだ。飯さえ
食えればいい。なんで、そういう生き方ができないんだ?
 俺と君子は陽光の面影が差し込む窓際のテーブルに腰を下ろす。窓際でもなお暗いのは
立地のせいか、それとも店の雰囲気のせいか、または客のせいか。
「ねえ、どうよ?」
 身を乗り出して俺に小声で話しかけてくる。その目線はそっと暗い雰囲気の客達を観察
しながらという事に俺も気づいたのだが……。
「どうよ、ってなんだよ」
「ここの客、みんな活動家でしょ。爆弾作ってるかもしれないよね」
 このご時勢だし、そういうことだってあるだろうなあ。
「だが、ここで口にする必要ないだろう」
 声で咎めるように君子に耳打ちする。
「だって、見てみたかったんじゃないの?」
「いや、俺は興味ない。ってか、お前が連れてきたんだろう」
 ぼそぼそと話しながら俺もまわりに注意を傾ける。途端に場が異常なことに気がつく。
「なあ」
「なによ?」
「みんな俺たち見てねえか?」
 どうも嫌な雰囲気だ。俺達を邪魔者扱いする空気が漂っている気がしてならない。いや
、むしろ確信的といってもいい。
「そりゃしょうがないでしょ。私たち大丸南学園の制服着てるんだし」
 という君子の言い分はなんとなく理解ができる。俺たちの制服は言ってみればお金持ち
です、と公言しながら歩いているようなものだ。
それに引き換え、ここの人たちの間で、打倒ブルジョア――つまり金持ちふざけんなと言
う考えが流行らしい。根っこを正していくと、人は皆平等なのだから、貧富の差はあって
はならない、という考え方らしい。たいへん立派な考えだとは思うが、世の中そういうわ
けにも行かないでしょ。まあ、いつの世もお題目は綺麗ごとだ。
否定はしないけど、現実見ないかい? そろそろ。「恰好の餌食よね」
 って言っている君子は何故に楽しそうなの? 理解できないよ。育ちのいい田舎者には
そんな神経は通っていないよ。
「どうするつもりだ?」
「どうするもなにも、なんもしないわよ。今日は見に来ただけ」
 今日は? 明日もあるのかい?
 一発反論してやろうと息を吸い込んだ時だった。店のドアが開き、店内の集中が一斉に
入り口に注がれた。何事かと俺達もそちらを見ると、入り口には切れ長の目をした長身の
男が立っていた。立っているだけで威圧感があるって言うのはこういうことか、と初めて
体感してしまった。何者だ?
 その影から一人の女の子が顔を覗かせている。肩に掛かる程度に短く切られた髪の毛は
柔らかく、瞳は快活さを表すように輝いている。店の雰囲気にそぐわないし、なにより一
緒にいる男と不釣合いな気がしてならない。
 その二人が現れた途端に店内の空気はどんよりと重たくなった。
「ねえねえ五郎、なにあの二人? ちょっとおかしくない?」
「俺もそう思う。とりあえず知らん振りしとこう」
 君子はどうやら気になって仕方がないのだろう。ウズウズしている気持ちが顔に出すぎ
だ。俺はといえば手の伸ばせる範囲にあった新聞を掴み、それに目を落として関係ないふ
りを装う。
 記事は先日あった警察官襲撃事件の続報だった。
 巡回中の警察官に政治運動家の人間数人が角材を持って襲い掛かり、拳銃を奪おうとし
たのだそうだ。押さえつけられた制服警官は咄嗟に銃を発砲。襲い掛かった二十代前半の
学生は出血多量で死亡。もう一人が警察官の腕から拳銃を奪い取って逃亡したそうだ。

 ただ不審な点があるという。
 警察官の話によれば銃は数発発砲し、仲間か一般住民かは定かではないが負傷した女性
が居るという話なのだ。今のところ警察官の発砲で怪我をした一般人が見つかっていない
事から、おそらく負傷したのはその運動家の仲間ではないか、という憶測が流れている。
警察もそのように判断したから記者発表に踏み切ったのだろう。
しかし、記事によればその警察官の話では女性はかなり重傷を負っていたと言うことだ。
にもかかわらず、未だに足取りがつかめないとはどういうことだろう? 運動家の組織の
中に医療関係者でもいるのだろうか?
 医者を目指す俺としてはその女性の安否がたいへん気になる。
 下心じゃないぞ、一応言っとくけど。
「ねえねえ」
 うっかり新聞を読みふけっていた俺を君子が現実に引き戻す。
「なんだよ?」
「全く動かないんだけど」
 俺も周りに注意を再び傾けてみると、空気が沈滞し不自然なほど動きがない。思わず俺
までが緊張して動けなくなる。
「何がどうなってる?」
 動けないままそっと君子に言うと
「……みんな、こっち見てる」
 思わず振り向いて見回す。全員が俺達を親の仇でも見るかのような目で睨みつけている
。完全に俺達は邪魔者だったわけだ。
「いこう」
 俺は君子をうながし席を立つ。名残惜しそうにしながらも、ただならぬ空気だけは感じ
取っていたのだろう。君子も俺の言葉に従うしかなかった。
「ちょっと五郎!」
 店を出ると君子が予想通りの反応を見せた。
「なんだよ?」
「あれ、なに? なんなの? なんの集まり?」
「だから革命家たちの集まりだろ。これから日本の未来についてゴソゴソ話しあうんだろ
、どうせ。」
「でもちょっとスリルがあって、なんか面白かったわねぇ」
 面白くねーよ! おまえなんかが変なこと言い出さなきゃ、こんな怖い目にあわずにす
んだのに。
「コーヒーも飲み損ねちまったし」
「なにしょぼくれてんのよ」
「うるせえ、たまには嗜好品の一つだって欲しくなるんだ。しかもおごりだぞ、君子の」
「誰がおごらないって言ったのよ」
「な、なに!」
 こいつ……おごってくれる気か。
熱でもあるんじゃないかと心配になって、真剣な顔で俺は君子に問いかける。
「頭おかしいんじゃないのか?」
「…………」
 俺が優しく心配してやっているのに、こいつは次の瞬間には俺の右腕を背中まで捻じり
上げて関節が外れんが勢いで固め技をきめてくる。
「な、なぜだ」
「なぜとか聞くな。このまま外す」
「悪かった。何が悪いのかは解らないが、とりあえず悪かった」
「それは反省の言葉じゃないでしょう」
 とか言いながら君子の顔はニヤリと笑いながら関節の限界ギリギリを前後させる。なぜ
あなたはそんなに生き生きと関節技を決めてくるんだろうね。怒ってないじゃん。
 その後は大ガードを潜って新宿西口の方へやってくると、学生やらОLやら会社員でご
った返す、安さだけが取柄のコーヒーショップに入った。さっきの所よりはいいよ、まだ
こっちのほうが。
「しかしなんだったんだろうね、あいつら。自分怪しいですって看板ぶら下げてるみたい
だったもんね」
 コーヒーを啜りながら君子はうれしそうに話す。
まあ、確かに怪しかった。それに連れの女の子は何者だろう。入ってきた男はたぶん三十
手前ってとこだろうが、女の子の方はおそらく俺や君子と同い年。違っても一こ下ってと
こだろう。微妙な違いだが、同年代は見れば一目でわかる。どんなに老け顔をしていても
、どんなに童顔でもその年齢が醸し出す雰囲気で解ってしまうものなのだ。
高校生や中学生にとっての一年の差は大きい。一年上なだけですごく大人に見えるし、一
年下なだけでひどく子供に見える。どちらでもないのは同い年だ。
 俺は入ってきた女の子を見たとき、同年代だとすぐにわかった。大人には見えなかった
し、だからと言ってそこまで子供っぽいという印象も薄かった。
「あの子、高校生なのに活動に引き入れられてるのかな?」
 君子も同じことを感じ取っていたのか、やはり気になるようだ。
「まあ、聞かない話じゃないからなあ。結構いるんだろ。大学へ行った先輩に勧誘されて
、学生運動とか反戦活動に引きこまれるって、よく聞くだろ」
「うちの学園は大丈夫だろうけどね」
「わからねえぞ。案外近場に運動家が潜んでるかも知れねえし」
「ま、そうだったとしても、私んちは関係ないけどね」
 言い切る辺りがすごいが、なぜそこまで自信たっぷりなんだ?
 先ほどの喫茶店の話をしているうちに、学校の噂話だとかテスト範囲だとかどうでもい
い話に会話は展開して行き、気がつくと外は暗くなり始めていた。
 店を出ると日は暮れているにもかかわらず、じっとりと蒸し暑い。
 君子も俺も同じ私鉄なので、西口から地下へおりていく。この時間帯は会社帰りや学校
帰りの客で車内はひどくごった返す。
ぎゅうぎゅうになった車内で俺はつり革に手を伸ばすが、君子はつり革まで手が届かず俺
の制服の肘辺りをつかんでつり革代わりにする。
至近距離で見ればドギマギしてしまいそうな端整な横顔に一瞬目を奪われる。俺はこいつ
に告白したのか、と思いそして手ひどく振られたのだという後悔が甦る。
思わずため息しちゃうよ。
それでも電車に乗ってすぐに君子の家のある代田橋駅に到着する。ものの十分程度の距離
だ。
「まあ、せいぜい暗い夜道に気をつけて帰ることね」
「お前より恐ろしいもんはねえから、ここから先は安全圏だ」
「なにを……」
 と言ったところで時効。ドアが閉まった。ざまあみろ。今日は俺の言い逃げだ。
 俺の駅はその隣の松原駅だから距離はそれほどない。
数分で松原駅のホームが見えてきて、停車すると自動ドアが開いた。
俺は次々に降りていく人の波にのってドアを潜ろうとした。
……とその時だった。
 電車が激しくゆれる。
停車しているものが何故にゆれるのか? 俺はバランスを崩して車外にはじき出され、鉄
柱に強か頭をぶった。あまりの激痛に我を忘れて額に手を当てると、ねちゃっとした感覚

血が出ている。真っ赤に染まった掌を見て、焦りではなく逆に落ち着きが戻ってきた。落
ち着かなければならない、そう思ったのは本能か、それとも俺の理性か、そこまではわか
らない。それでも今は周りの状況を把握しなければならない、と電車に目を移すと、なん
と電車は向かいホームにつっこむ様な形で横転していた。
 そこで初めて自分の異常にも気づく。
耳が聞こえていないのだ。
 周りには逃げ惑う人びとの混乱が手に取るようにわかるのに、何も聞こえていない。

 一体何が起こっているんだ?
 後部車両は線路からその巨体の車輪を浮かすようにして留まっており、自分の乗ってい
た車両に移動するにしたがって捻じれるように横転している。
 先頭車両に目を移すと、そこからはモクモクと黒い煙が上がっている。
 あれが原因だ。と短絡的に考えた俺の判断はどうやら間違いではなかったようだった。
 先頭車両のドア付近は完全に吹き飛んでしまい煙が上がっている。
降りようとしていた乗客、これから乗り込もうと待っていた人々、とにかくそこにいる人
間達を吹き飛ばして、反動で電車は横転したのだ。
 が、次の瞬間にはもっと悲惨な光景が目の前に現れる。
 向かいホームにつっこむ形になって倒れていた下り電車に、急ブレーキ音を響かせなが
ら上り電車がつっこんできたのだ。
 爆発で耳が馬鹿になっている俺には何の音も聞こえないはずだったが、その光景が目に
入った瞬間、鉄がねじ切れぶつかり合い、立ち上る悲鳴が聞こえたような気がした。
 とにかく割れたガラスや火の粉が飛んでくる。俺はその場に臥せってやり過ごすしかな
かった。何かが横腹に当たって鈍痛を催し咳き込む。
ホームの石畳だった。もしかしたら、アバラ骨が折れたかもしれない。
しかし今はそれどころじゃなく、気が動転して痛みすら感じない。
 逃げ惑う人々を傍観しながら、ひどく立ち上がるのが億劫になる。
 まさかとは思うが、死んじゃうのか? これが死ぬ前というやつか? それはまずい。
俺はまだ死にたくない!
 ぼんやりと霧のかかったような頭の中をたたき起こすように両手で頬をパチンと叩く。
 膝に手を突き重い身体を奮い立たせる。思わずふらついて、先ほどぶつけた鉄柱に寄り
かかり顔を上げる。
 不思議なものが目に入った。
 瓦礫と煙の中から誰かが立ち上がったのだ。
 そんなはずない。あそこは先頭車両だ。しかもあの辺りは間違いなく爆心地。人の形を
なくしたモノがごろごろと転がる中で立ち上がるって、どういうことだ?
 しかしそれは見間違いじゃなかった。間違いなく、そこには人が立っている。しかもあ
の顔は見たことがある。柔らかなショートカットに快活そうな瞳。そう、さっき喫茶店で

「なあ、君!」
 俺の声に気づいたその女の子がこちらに振り向く。血と煤に汚れたその顔に浮かんでい
るのは喫茶店で見せた溌剌とした笑顔だった。
 しかしニッコリ笑って見せる女の子は次の瞬間ふらっとしたかと思うと、その場に尻も
ちを突く。
 そりゃそうだ。
 立ち上がったことそのものが奇跡なのに、そのままでいられるはずがない。
「大丈夫か?」
 自分の怪我のことなんかすっかり忘れてしまい、彼女に走り寄る。
 俺の問いに頷き返して答えてくるが、とてもじゃないが大丈夫には見えない。
 俺が手を差し伸べると女の子は真っ黒に煤けた手を伸ばす。
 彼女は俺の手を握ると
「………わぁ」
 どこか感動しているような表情で取った手を見つめる。
きっとショックでよくわからないことになっているのだろう。
「とにかく表まで運んでやるから」
 と言って俺は彼女を立ち上がらせると、そのまま背中に彼女を背負う。一瞬きょとんと
してから女の子は楽しそうな笑いが零れる。本当に怪我人か、こいつ?
 血だらけの彼女を担ぐと急いで階段を駆け下りる。階段のあちこちにも苦痛に顔をゆが
めた人たちが座り込んだりしている。
 だめだ、外に出ないと。この子を早く病院に連れて行かないと。
 そう考えながら階段を下りているときだった、彼女が俺の額の傷を鷲掴みにした。
「いてえっ! いて、いてえ、ちょっ、いてぇよ!」
 言葉が通じないのか、彼女はその手を緩める気はない。
俺は歯軋りをしながら階段をおりきり、改札を抜ける。もちろん定期を出すどころじゃな
い。素通りだ。
 駅前のロータリーも逃げてきた人々でごった返していた。到着しない救急車に痺れを切
らし、タクシーが入れ替わり立ち代り怪我人を乗せて病院へ向かう。異常に気がついた一
般住民たちも車を出し、怪我人を乗せて飛び出していく。
 この子のことを考えたら、俺も便乗させてもらったほうがいいだろう。
「だれか! だれか、この子を乗せてください!」
 運がよかった、というべきなのだろうか。軽トラックで走りこんできたおじちゃんが、
荷台に乗るように促す。荷台に人を乗せるのはもちろん交通違反。だが今はそんな悠長な
こと言っている場合じゃない。俺達以外にも何人かが荷台に乗り込み、軽トラックがその
場から滑り出す。甲州街道に出たところで救急車とすれ違った。
「おい、本当に大丈夫か?」
 気がついたら息がなかったとか、戦中の兵士の話を本で読んだことがある。心配になっ
て声をかけると「うん」と元気な返事が返ってきた。
 彼女の声が聞こえるって事は、俺の耳もだいぶ回復してきたらしい。よく耳を澄ませば
、相乗りした人たちも何か話している。
内容まで聞き取れるほどは回復していないようだ。車はすぐに減速し、総合病院内の敷地
に入る。中に入って驚いたが、先に到着した人たちが既に廊下のあちこちに寝ながら応急
処置を受けていた。これじゃ野戦病院だ。
 明らかに手が足りないといった状況で、ロビーは患者と病院関係者で騒々としていた。
 俺たちまで順番が廻ってくるのだろうか?
 さすがに不安になって、彼女を背負いながら立ち尽くしていると、医師が一人走り寄っ
てきた。
「その子、大丈夫かい? だいぶ怪我がひどいように見えるが」
 医師はそういうと、背中の彼女の様子を見る。
「お願いします」
 俺も彼女をその場に下ろして医師に委ねる。
しかし、俺は見てしまった。走り寄ってきた医師のネームプレートには彼の名前の上に『
耳鼻科医』と書いてあったことを。院内総出なのだ。みんな一応は応急処置の方法は教わ
っているはずだから、その中でこれは手に負えないと判断した患者が救急治療室に運ばれ
るのだろう。
俺も将来医者になりたいと思っていたのに、全く何もできないとは……情けない。
「おかしいなあ」
 耳鼻科医はしきりに首を捻るので、何事かと思って俺も聞き返した。
「どうしたんですか?」
「いやね、血がついたりしてるんだけど、怪我は一つもないんだよ」
 まさか。だってあの場所でそんなことってあるのか? 予想だにしない状況だった。無
傷って……。
「かすり傷もないんですか?」
「ええ、全く。ちなみに君は大丈夫なのかい?」
 そういえば忘れていた。俺は電車から吐き出された瞬間に鉄柱に頭をぶつけている。下
手したら縫わなきゃならないかも知れないんだ。それにアバラもやられているかもしれな
い。耳鼻科医はまず俺の頭の傷に手を当てる。
「血はついてるけど、傷にはなっていないようだね。アバラ骨の方も全部無事だ。他に痛
む所があったら言って下さい。私は別の患者さんの所に行きますから」
 そう言って耳鼻科医は踵を返していってしまった。取り残された俺は唖然としたまま立
ちつくし、それからおもむろに額に手を当ててみる。先ほど耳鼻科医が消毒したガーゼで
ふき取った血液の塊の下には、怪我なんてこれっぽっちも残っていなかった。
「なに? あれはなんだったんだ?」
 焦るよ。だってドカドカ血が出ていたのに、かすり傷すら残っていない。なに? 幻?
騙された? ……誰に? いやいやいや、混乱しているのだ、俺は。落ち着け、落ち着け
。誰も騙してなんていないんだぞ。やはり錯覚とかだったのだろうか?
「ねえねえ」
 考え込む俺の袖を引っ張るのは、血と煤にまみれた顔を綺麗にぬぐってもらったあの少
女だった。
「お腹すいた」
「……お腹すいたって」
 いや、まあ、怪我がなかったわけだし、それはよしとするとして、この野戦病院的状況
下でお腹すいたって……。
「購買にパンとか売ってるから、食うか?」
「食う」
 購買でアンパンを二つ買い求めると医師たちの邪魔にならないように表のベンチに腰掛
けて彼女にアンパンを渡す。袋を開けてパンを頬ばる彼女はいたって元気そうだ。
「名前はなんていうんだ?」
「はあ?」
「なまえ、お前さんの名前だよ」
「ああ………」
 と考え出す。なんだ? まさかどっかにぶつけて、頭の螺子どっかに落としてきたとか
、記憶喪失とかそういう類か?
 俺の焦りと心配をよそにしばし彼女は上を見たり、腕を組んだりして考え込んでから。
「あっ、双葉!」
 と元気に答えた。
 あっ、て言ったよね、いま。
「……双葉……か。まあ、いいや。じゃあ……」
「名前はなんていうんだ?」
 さっき俺がした質問を鸚鵡返しに聞いてきた。確かに名乗っていなかった。
「ああ、悪かった。大貫五郎だ。よろしく」
 なにをよろしくなんだ? 双葉は何度か口の中で俺の名前を繰り返してから、
「おう、よろしく」
 元気に答える。確かに怪我などはなさそうだ。ただ、なんだか返答の節々に幼さが残り
、やはり爆発のショックで頭の螺子を一本か二本、どっかに落としてきたんじゃないかと
心配になる。
 さて、これからどうしたものだろうか。
「家はどこなんだ?」
「いえ?」
 聞き返してから双葉は再びさっきと同じ行動を繰り返してから
「家、ないない」
 ないって……。
「両親とかは?」
「りょうしん? ……ないない」
 おっと、もしかしてまずいことを聞いちゃったのか? 聞くにしたって、もうちょっと
デリケートに質問すべきだったか。
「そ、そうか。そりゃ悪かったな。変なこと聞いて」
「ああ、悪かった」
 屈託なく責められたことの無い俺はちょっと扱いに困った。会話が続かないぞ、これは

 途切れた会話にしどろもどろになっている俺の横で双葉は、既にアンパンを食べ終わっ
てしまい、俺の手の中にあるアンパンを見つめる。
 はいはい、食べ足りないのね。
「食っていいぞ」
「いいぞ! よっしゃあ!」
 取り上げるように俺の手から掠め取って食べ始める。まあいいけどね。こんなことの後
だから食欲なんてなかったし。
「あのすいません」
 そんな俺に声をかけてきたのは若い男女二人。夫婦だろうか?
「はい、なんでしょうか?」
 殊勝な受け答えにその男女はぺこりと頭を下げる。
「今日はうちの双葉がお世話になったそうで。本当にありがとう御座いました。さきほど
、あちらの先生から聞きまして飛んできました」
「え、っという事は……お父さんと……そちらがお母さん?」
「はい。松原駅で事故があったと聞いて、娘がその時間帯にいつも電車に乗っているもの
ですから、心配になって」
「車を出して松原駅に行って、こういう女の子はいなかったかと聞いて廻ったら、双葉を
乗せたという男性がいらっしゃいまして、こちらに来た次第です」
 二人は交互にしゃべりながら経緯を説明した。
なるほど、そういうことだったのか。でもさっき双葉は、両親はいないと言っていたけれ
ど、あれはどういうことだ?
 気になった俺は双葉の顔を見るが、パンに夢中でご両親に気がついている素振りも見せ
ない。
「おい、双葉。お父さんとお母さんが迎えに来たぞ」
「え?」
 間抜けな声を出して俺を見る。いや、俺を見るな。
「迎えに来たって。帰れるか?」
 双葉は両親の顔を見る。
「大丈夫だった、双葉ちゃん」
「さ、双葉帰ろう」
 しばらく両親と見詰め合っていた双葉は、二人の語りかけが無かったかのように、再び
アンパンにかじりついた。おいおい、うまくいってないのか?
 さすがにご両親は困り顔になっている。
「なあ、大丈夫そうなら一回家に帰ったらどうだ? それから後日通院したっていいんだ
し」
 俺の説得に双葉は首を振って答えた。
「いえ、ないない。帰るとこ、ないない」
 やっぱ仲が悪いんだろうなあ。困ったな。さすがに部外者の俺は気まずい。
「双葉ちゃん」
 お母さんの困り顔に、さすがの俺も見かねて言葉を強くする。
「おい、あんまりそういう事は冗談でも言うもんじゃないぞ」
 しかし双葉は頑なに首を振るだけだった。
「すみません、お見苦しい所をお見せしました。さ、いくぞ双葉」
 そういうとお父さんは双葉の手をとり、立ち上がらせる。
「やだ、ゴローのとこへ行く。そっちはやだ」
 同い年の言い方じゃない。これじゃ、わがままを言っている幼児だ。しかしそんな双葉
と両親の間にどんな確執があるのだろう? もちろん他人が首をつっこんでいい話じゃな
い。もしかしたら双葉は家出をして、あの政治運動家の大学生達の所へ身を寄せていたの
かもしれない。それなら納得がいく。ただの家出娘なら家がないと言い張ることも、両親
がいないと嘘をつくことも説明がつくのだ。
 手を引かれていく双葉。両親が一度振り返ってこちらに頭を下げる。俺も返礼しようと
する。
 ………………まて、そんなわけ無いじゃないか。だって……。
「ちょっとすいません」
 俺は思わず三人を呼び止める。不思議そうな顔をして振り向く両親に、何かを訴えかけ
るような表情の双葉。
「一つ、お聞きしていいですか?」
「はいなんでしょうか?」
 一度持った疑惑のせいか母親の笑顔が嘘臭く見えてしまう。でも俺は躊躇しない。
「双葉は、お二人がいくつの時に産まれた子供ですか?」
 母親の笑顔が僅かに引きつったのを見逃さない。
 間違いない。この二人は、どんなに多く見積もっても三十歳未満にしか見えない。二人
とも確かに少し老け顔ではあるが、肌のつやや髭の濃さは明らかに二十代中盤くらいなの
だ。双葉は俺と同い年か、誤差があっても一こした。どんな言動をしていても中学生では
ない。高校二年の俺と同い年だ。だったら、この両親が小学生の時につくった子供という
ことになってしまう。それは現実問題として可能性はあっても、ほぼありえない。
 二人は質問の意図を理解したらしく、目がうつろになる。敵意を出しているのだ。それ
は喫茶店に屯する客達が、俺達を追い出そうと放っていた、あのむき出しの敵意と全く一
緒だった。
……こいつら、双葉の両親じゃねえ。
「双葉から手を離してください。嫌がってるじゃないですか」
 あくまで丁重に言う。できればケンカをするような展開にはもって行きたくない。理由
は簡単。年齢差で圧倒的不利だからだ。それにこの二人も政治運動家に違いない。だとし
たら角材を振り回し、投石、火炎瓶と修羅場を渡ってきたことも確かだ。やりあうには厳
しすぎる。できれば逃げ出したい。
 ここは取って置きの秘策を用いるしかないだろう。
「無駄な抵抗はやめたほうがいい。そこの影に俺の部下が隠れていていつでもあなた方を
、コテンパンにできるんです。何しろ俺の部下はヒグマの心臓をくりぬいて、死ぬ前にそ
れを熊に食べさせたほどの手だれです。だから、俺の言うとおりに従ったほうがいい」

 どうだ! 震え上がったろう! ちびりそうだろう! これを言うと千葉県民の90%
は裸足で逃げ出すのだ。さあ、双葉を置いて裸足で逃げ出せ!
「………っふ」
 笑った? 待て待て、何故に笑う。どこだ、なにが面白かった?
「お、おい、まさか信じてないとか言うんじゃないだろうな?」
 まずい、俺の声が震えている。
「し、信じたほうがいいぞ。信じるものは救われるからな」
 二人は笑っている。なにがおかしいというのだ。笑いどころは全く無いはずだぞ。
「面白いことをいうんだね。ただ私たちは、ちょっと急ぐんでねあまり君には付き合って
られないんだ。失礼」
 男はそういうと、きびすを返して双葉を引き摺っていく。
「おまえら、ちょっと待て!」
 という俺の脚は恐怖で動こうとしない。
「まて、双葉を連れて行くんじゃねえ!」
 その時、門の塀から走りこんでくる人影が双葉の手を引く男とぶつかる。
「痛ったぁ!」
 飛び込んできたのは、見間違いようもなく……。
「君子!」
「あ、あんたこんなとこにいたの? まさか、事故に巻き込まれたんじゃないでしょうね
?そういう事は私に一言断ってから巻き込まれなさいよ」
 滅茶苦茶だ。お前に断るくらいだったら、最初から事故になんか巻き込まれたりはしな
い。そんなことより、今は双葉を。
「君子、双葉を助けてやってくれ」
「はあ? ふたば?」
「誘拐される!」
 振り向いた君子が三人を見つめる。誰が誘拐犯で、誰が誘拐されそうになっているのか
。そんなの見れば一発でわかる。
「間違いないのね?」
「間違いない!」
 双葉の手を引く男と女は、俺が忠告したとおり物陰から人が出てきたことに驚いている
。やっぱり嘘だとばれていたんだ。忌々しいやつらめ。しかし運よく君子が来てくれた。
 君子は身を低くして風を切るように突進していくと、まず男にタックルをかます。まさ
か高校生の制服を着た女の子に吹き飛ばされるとは思っていなかったのだろう。ところが
どっこい、君子は人の身体がどのように動かしたら、どうなるかを体得しているのだ。決
して馬鹿力だけではないのだ。
 思わず手を離した男はそのまま門の外まで転がっていく。次に君子は双葉を引き寄せよ
うとする女に向かって水平チョップ。それをギリギリでよける女。しかしこの水平チョッ
プは単なる囮。身を低くして避けた女の手が緩んだ隙を突いて、君子の踵が女の肩甲骨と
背骨の間の肉にめり込み、激痛に目を白黒させる。
 君子はすぐさま双葉の手を掴むと
「で、後はどうしたらいいの?」
「逃げよう」
 騒ぎを聞きつけて人が集まり始めていた。
俺達は門を飛び出して甲州街道に向かって走り出す。甲州街道を越えると笹塚駅が見えて
きた。
 うっかりしていた。松原駅があの状況じゃ、全線止まっているに決まっている。
「しょうがないわね」
 君子がそういうと駅前にある公衆電話にかけていき、十円玉を入れる。あっという間に
会話を終えた君子は
「うちの車が来るから、ちょっと待ってなさい」
 と言って今来た道を引き返して甲州街道に向かった。
 五分も待たず君子の家の車らしきものがやってきた。俺は車の種類には明るくないが、
見ればすぐにわかる。黒塗りにワックスのつやが街明かりを反射する。誰がどう見ても高
級車以外の何物でもなかった。運転席から執事でも出てくるのかと思ったら、サングラス
をかけ黒のスーツで身を固めた、がたいのいいお兄さんが現れた。
「お譲、遅くなりやした」
 どこが遅くなったのか。むしろ超特急とはこのことだ。
「松岡、とりあえず常勝館に向かって」
「へい」
 松岡という男のしゃべり方は明らかに一般人ではない。なんとなく君子の家がどんな家
か想像がついてしまった。
 ちなみに常勝館というのは、俺が住んでいる高校生向けの学生寮だ。常勝館などと勝気
この上ない名前だが、名前に負けず進学率は高い。何よりも夕食がついてかなりの安価で
生活ができることもあって、その人気は高かった。
そう過去形なのだ。今は状況が違ってきている。
 子供に一人暮らしをさせたくない親が増えているのだと言う。せっかく勉強させて進学
させて一人暮らしを始めた途端に学生闘争を始める、というのが言いぶん。
連日、テレビや新聞をにぎわせているのは暴徒と化した政治運動の大学生たちの姿。それ
を見た親達が一人暮らしをさせることをよく思わないのは無理もないことではある。
 俺のところはもちろんテレビも新聞もない隔離された漁村な訳だから、誰も反対しなか
ったのだ。むしろ自分の金で学校へ行って自分の金で一人暮らしするといっているのだ。
親兄妹にとっちゃあこの上ない口減らしに他ならない。
 双葉を挟んで俺と君子、三人が後部座席を陣取り、車は滑らかに住宅地へと入っていく
。その住宅地の中でもやたらと墓地ばかりが点在する一角に常勝館の四角いコンクリート
建ての容貌が見えてくる。丈夫である事には違いないが、それ以外のメリットは何も無い
鉄筋コンクリート。夏蒸し暑く、冬は底冷えするこの建物は貧乏学生のために作られた雨
風を凌ぐ場所に他ならない。
 薄気味悪い事と、貧乏人しかいないことから泥棒の心配は一切無く、施錠のされていな
い入り口を開けると、松岡さんが
「自分はここでお待ちしています」
 と直立不動で止まった。
 玄関を抜けると食堂だ。時間はもう九時を過ぎているせいか、安延美恵子さんと言う寮
母さんがキッチンにいるだけだった。
「ただいま帰りました」
「あら、お帰り。ねえ、聞いたかい? 今日松原駅ですごい事故があったんだって」
 と話しかけてくる安延さんは俺を一目見ると、今話そうとしていた話題の当事者が俺で
あるということに気がついたようだ。
「まさか、それって?」
「まあ……ごらんのとおりと言うか……」
 大慌てでキッチンから出てきた安延さんは、タオルを水でぬらし着替えを用意してくれ
る。至れり尽くせりすぎるよ安延さん。
 彼女は寮母さんと言うにはちょっと若すぎる。俺達にとっては大人のお姉さん的存在だ
。寮内の安延ファンの間での情報では年齢は28歳。彼氏無し。スリーサイズは彼女への
冒涜となるので測ることも聞くことも想像する事も禁じられている。禁じられているが、
その抜群の流線型の姿を見て、わざわざスリーサイズを気にする必要は感じられない。

つまりは最強のモデルのようなスタイルなのだ。
なにを好き好んでこんなひどい労働環境に身を投げているのか、俺はそっちのほうが気に
なるくらいなのだ。
「あれ、君ちゃん、それに……この子はだれだい?」
 安延さんは後ろの二人に気がつくと、見慣れない顔にキョトンとする。
 君子はしょっちゅうこの寮に遊びに来ている。愛らしい容姿のおかげで、寮生たちから
の人気は安延さんに並ぶほどだ。そういう訳で安延さんも君子の事は知っているものの、
双葉の事は知らない。まあ、俺だってどういう訳かこうなっちまったんだもんなあ。
「どうも、いつもお世話になっています」
 君子の殊勝な挨拶。
「君ちゃんも巻き込まれたの?」
 安延さんは目を丸くして心配している。
「いえ、私は……話しを聞いて多分五郎の乗ってた電車だなあ、と思ったんで様子を見に
来ただけです」
 そういうことだったのか。何故あのタイミングで君子がやってきたのか甚だ不思議でな
らなかった。しかし、なんでどこの病院に運ばれていたのかも解ったんだ?
「………ほうほう。かわいいとこあるわねえ」
 と安延さんは目を細めて笑う。
 ハッと振り向く君子。
「とりあえずそっちの娘はどこの誰だい? お姉さんに教えてくんないかなぁ?」
 そう聞かれて俺も君子も困ったように顔を見合わせる。説明の仕様が無い。
 解っていることだけ話す。
今日喫茶店で見かけた女の子が、松原駅の爆発事故に巻き込まれて俺が助けた。そして、
両親だと嘘をついてこの娘を連れて行こうとした奴らがいた。しかしだよ、それ以上は俺
だってわかっていないんだ。
「なるほど、双葉ちゃんって言うのか」
 安延さんはお茶を出しながら言う。
「あつぅ!」
 入れたてのお茶をがぶ飲みしようとした双葉が舌をひりひりさせながら涙目になってい
る。安延さんは横目に双葉を見ながら
「まあ、確かに怪しいは怪しいけどね。どうすんだい、五郎は?」
「どうするって、なんですか?」
「この娘、連れてきちゃったのはいいけど、あんたの部屋に住まわせる気かい?」
 そうか、なんも考えていなかった……。
「そんなことしたら婦女暴行の罪で即逮捕だからね」
 待て君子、それは暴行してからの罪だろう。
「よかったね」
「よくねーよ!」
 って双葉につっこんでどうする俺。
「っつーか、お前のことで話してんだからな」
 ため息混じりに言うと、双葉は自分の後ろを振り返る。いませんから! 誰も後ろにな
んていませんから!
「一応、寮の規則では女性との同棲は認めてないから、そこんとこよろしく」
 安延さんは厳しくそういうと、おもむろに席を立ち
「十一時過ぎたら私の部屋に連れて来なよ。それ以上、部屋でごにょごにょしようとした
らマスターキーでこじ開けてたたき出すからね」
 安延さんは一度キッチンへ姿を消すと、すぐに顔だけ出して
「そうそう、君ちゃんも今日は私のとこに泊まって行くっしょ」
「はい」
 平然と君子は安延さんに返しながら泰然とお茶をすすっている。
 俺はなんだか疲れがドッと出て、とりあえず無意味にため息なんかをついてみたりする

 安延さんが言う通り、常勝館は同棲禁止である。が、寮母さんの部屋になら泊まってい
い、というのが特例であるのだ。しかし、である!
 先輩なんかが自分の彼女を寮母さんである安延さんの部屋に泊まらせた次の日には、な
ぜか彼女は先輩が秘密にしているような弱みのほとんどを握っているという摩訶不可思議
な現象が起きる。
 もちろん、寮母さんの部屋の中で夜明かしする勢いで膨大な情報の交換がなされている
事は間違いない。なーんでも知ってるんだよ、安延さんは。おそろしいくらいに。
 君子もここに遊びに来ると安延さんの部屋に泊まる時がある。その回数が増えるごとに
俺の君子への隷属度も急上昇していくわけだ。最悪だ。
 俺たちは一路209号室へと階段を登っていく。209号室は俺の部屋だ。何も無い伽
藍堂である。前の先輩が残していった掛け布団が一枚に、勉強用のダンボールの上に木の
板を乗っけただけの文机。それだけが俺の部屋の家財だ。
 三人腰をおろし、どこから話をするべきか思案する。
「なあ、双葉」
「なんだ、ゴロー?」
 元気に返してくるが、それ故にどう聞くべきか俺は質問に迷う。しかし、そこははっき
り聞くべきなんだろう。
「おまえはなに者だ?」
 そう聞かれた双葉は不思議そうに首を捻ってから考え込んだ。
「ねえ、やっぱりこの娘……」
 君子が言わんとしている事は俺も察している。爆発に巻き込まれたときのショックによ
る記憶喪失なのではないか。俺は君子に頷き返して再び双葉に話を振る。
「ああ、悪かった。思い出せない事は無理に思い出さなくていい。わかることを話してく
れ。双葉のことならなんでもいい」
「双葉のこと?」
 やはり彼女は首を傾げるばかりで、結局顎に手をあてて考え込む。
 話しは一歩も前進しないまま、十一時を向かえる。
「仕方ない、今日はここまでだろう」
「そうね、どうしようもないわね、このまま話しこんでいても」
「とりあえず、二人は安延さんのとこな」
君子と双葉を安延さんの元に送り届け、その日は終了した。
「じゃあな、ゴロー」
 眠そうな目をこすりながら、それでも元気よく手を振る双葉。
「双葉、こういう時はじゃあな、じゃなくて、おやすみだ」
「おお、そうか……じゃあ、おやすみ」
 虚ろで眠そうな目をしながら双葉はやはり元気よくそう言った。俺は息をつく。ため息
ではないのだが、まあ、それに近いもんだ。
 君子の顔を見ると、やはり俺と同じ様な表情だった。一瞬目があったが、君子はすぐに
プイッと目をそらし安延さんの部屋へと消えて行った。
「はいはい、じゃあ寝ようね、双葉ちゃん」
 安延さんに連れられて部屋の中へ消えて行く双葉を見送る。
 双葉、お前は本当になにものなんだよ、まったく。
     ****
 熱い日差しが心地いい。
 ここはどこだろう? 目を下に向けると、一対の男女が陽だまりの下でなにか話してい
る。声までは聞こえない。
 何を話しているんだろう?
 女がこちらを見上げると、男も追ってこちらを見上げる。
 ああ、そうか。約束したんだっけ
 そう思いながら短い夢がゆっくりと終息していくのを双葉は感じた。
inserted by FC2 system