序章 里中双葉


 里中忠彦は天井を見上げる。コンクリートで固められた天井の上には分厚い土くれがあ
り、その上には街中を闊歩する群集たちがいるに違いない。こうして地下に潜ってトンネ
ルを掘っている間は、地上のことが忘れられる。
――地上のガキどもの喧騒に比べたら、この採掘重機のエンジン音の方が何倍もましだ。
そう思うと里中忠彦は思わず歯軋りしていた。
 芋づる式に思いは連鎖して辛い過去にすぐに捕まる。妻の顔が思い浮かび、元気だった
頃の娘の顔が思い浮かぶ。
「どうした?里中さん」
 班長の声に我に帰る。どうやら、呆けていたのだろう。
「すいません、なんでもないです」
 できる限り笑顔を作って、平静を装う。班長は遠目に里中の顔を仰ぎ見た。
「そうかい。まあ空気悪いからね。具合悪くなったら言っとくれ。あんたまだなれてない
んだ。人手がないときに怪我されたら、そっちのほうが困るからね」
 笑いながら冗談めかして言う班長の優しさには頭が下がる。重機音が鳴り響き、常に空
気は淀み、誰もが気持ちのささくれ立つのを感じている労働現場だ。
外では労働者達が賃金の値上げだとか、労働環境の改善を叫んでいる。ここではだれも文
句は言わない。ひとえに班長の人柄に助けられている所があると言ってもいいだろう。

里中は気を引き締めて何も考えないように注意しながら作業に集中する。
その時だった。
 ――なんだこれは?
 地面から薄っすらと緑色に輝く球形の塊が見えた。里中は顔を寄せてみると、トゲトゲ
とした栗の殻か海胆のような玉だ。大きさは三センチくらいだろうか?掘り起こして拾い
上げる。
 ――水晶みたいなものかな。まさか宝石じゃあるまい。この辺でそういうものが取れる
なんて話聞いたこともないしな。持っていったら双葉が喜ぶかな?
 里中は娘の顔を思いだす。手袋を外して指で摘んでみるが、不思議と刺さるような痛み
はない。そっと胸ポケットに入れて里中は作業に戻った。
 定時になると今日の給金が封筒にも入れられず裸で渡され、地上へ出る。外は日が落ち
ている。国鉄の切符を買ってしばし車内でまどろむ。気がつくと新宿駅についていて、危
なく乗り過ごす所だった。
駅を出るとそのまま新宿三丁目のほうへと歩き出す。伊勢丹を過ぎ信号を渡る。ふと立ち
止まると、そこには軒を連ねる雑貨店やパン屋、肉屋に八百屋の中にただの空き地がぽっ
かりと開いている。
 ――ここにかつて人が住んでいたのか。
 里中は横目に捉えて、それ以上は気にしないように勤めた。更に歩いていくと総合病院
の看板が見えてくる。薄暗闇の中で僅かに漏れるビル明かりに照らされて文字が見て取れ
る。病院に入ると里中はまず手を洗った。土やオイルにまみれた手の汚れは簡単には落ち
なかったが、それでも里中は丹念に洗い、そしてふと今日の工事現場での事をおもいだす

 ――そうだ、双葉に今日は土産があった。
 ポケットから緑に輝くガラス球のようなものを取り出して、そのトゲトゲの間に入り込
んだ砂や泥を洗い落としていく。ゆっくりと泥が水流に押し流されていくにつれ、里中は
目を見開いた。
「なんだこれは?」
 そう呟くのも無理はなく、ガラス球だと思っていた緑色の球は中心から柔らかな光を放
っている。決して強い光ではなく優しくほのかに光っている。蛍のような光だった。そし
て光源を中心にしてそこから毛が生えるように真っ直ぐ、ピンッと外に向かってとげが突
き出ている。
 里中は探るように、摘む指に力を入れてみる。
 痛くない。
 不思議に思い更に強く力を入れてみるが痛みは全く感じない。里中は思い切って力いっ
ぱい握ってみる。しかし全く痛くはないし、開いた手にはトゲトゲの痕すら残っていなか
った。
 里中は首をかしげながらも娘の元へと向かった。
「双葉、ただいま」
 病室のドアを開く。里中が木イスを出して座る。
「今日なあ、面白いもん拾ったぞ。どうだこれ? 不思議だろ、自ら輝いてるんだ。緑色
……じゃないなあ、なんていうんだっけ? エメラルドグリーンだっけな?」
 里中の問いかけに、ベッドで横たわる少女は目を開こうともしない。呼吸すら止まって
いるのではないか、という錯覚に陥る。里中はそっと耳を傾ける。静寂の中にほんのわず
かに彼女の呼吸の音を感じ取って、里中はホッと胸をなでおろす。
 腕の周りには常に点滴のチューブが這い、彼女を覆う布団の下には彼女の状態を常に監
視する計器が幾つも取り付けてある。その経過は枕もとの向こう側にある機械が暫時デー
タを残している。里中にはそれらの計器が一体何を指し示すものなのか全くわからなかっ
たが、一年以上それを見てきて、今は落ち着いている状態だという事はわかるようになっ
ていた。
「よし、これはお前にやろう。お守りだ」
 里中は少女の手を取りその掌を開き、緑に輝くそれを握らせてやる。それから今日あっ
たことを話す。いつもと変わらない話だ。いつもと同じ作業をし、いつもの時間に帰って
くる。順を追って話していく。
 いつの間にか里中は話しながら眠ってしまった。それも常のことだった。
そして夢を見る。いつもの夢だ。
 そこには自分の店がある。小さいが洋服を作る店だ。大きな裁ちバサミで妻が布を裁断
していく。娘が帰ってくる。カバンを置いて着替えると、すぐに遊びに出て行く。薄いピ
ンク色のブラウスもロングのスカートも妻と自分が作った物だ。娘は友達から羨ましがら
れると言っていた。いつも流行の服を着ているからだそうだ。そんな話を聞いて妻と顔を
見合わせて、お互い恥ずかしそうに笑った。だが、何よりうれしいことでもあった。
 ――ああ、あの日だ。あの日が来る。
 幸せだった時の思いでがそろそろ終わりを告げる。
 夜だ。夜を引き裂くようにうなり声が、叫び声が聞こえてくる。二年前だ。
外の怒号を聞き里中は妻と娘を奥にやり、自分は二階の窓から外の様子を見る。
 赤いヘルメットを被った集団が新宿駅のほうへ向かっていく。道路を埋め尽くすような
人の波。赤い波だ。皆が角材を手に、又は道路のアスファルトを無理やり引き剥がし両腕
に抱え、又は火炎瓶を手に新宿駅へと向かって行進をしている。
 ――早く行ってくれ。ここから早く通り過ぎてくれ。
 里中は祈るような気持ちでその赤い波を見つめていた。ヘルメットたちはみな新宿駅の
ほうへと吸い込まれていく。一体彼らが何を求めて新宿駅へ向かっているのか、里中には
わからない。人の波が落ち着いたように見えたので窓を開け駅のほうへ目をやる。オレン
ジ色にチロチロとしたものが遠目にもわかり、その周りがぼんやりと明るくなっている。
燃えているのだ。駅が燃やされている。
 学生たちは何を考えているんだ?
 状況を見守りながら、早くこの騒乱が収まらないかと息を殺している時だった。機動隊
に追いやられた学生たちが一人、また一人とこちらに走ってくる。走りながらも時折振り
返っては投石をして機動隊にぶちあてる。盾を持った機動隊は確実に赤いヘルメットたち
を追い詰めていく。その中の一人の手に火炎瓶が握られていた。持ちながら危なっかしく
逃げ、里中の眼下に来たちょうどその時、男は振り返り機動隊に投げつけようとした。
 しかし緊張と寒さに震えた男の手から火炎瓶はするりと落ち割れた。同時に投げようと
した男を炎が包み込み、その大きな種火が里中の家を襲おうとしている。急いで妻と娘を
呼び、裏口から外に出る。あっという間に燃え上がった店前は手のつけようがなくなって
いた。それでも里中は表にある水道のホースから、水を噴きつけ消火しようとするも、火
の勢いは留まるどころか増すばかりだった。
「あなた、金庫!」
 妻が叫ぶ。そうだ、金庫。金庫があれば一からでもやり直せる。
 里中は果敢に炎の中に飛び込む。
「お父さん!」
 それが娘と妻の最後の言葉だった。片手で抱えられるほどの金庫を持って外へ飛び出し
てきた時には、妻も娘もその場に倒れていた。
 頭が真っ白になり、どうした事かと混乱した。
しかしよく見ればすぐにわかった。ごろごろそこら中に転がる石、アスファルト、瓦礫、
鉄くず。あの赤いヘルメット達の投石だ。妻も娘も流れ弾に当たったのだ。
 里中は急いで二人に呼びかけるが、妻は既に事切れていた。泣く間もなく娘を診るとま
だ息がある。一刻の猶予もなかった。娘を背負い、魂の抜けた妻の亡骸に、ここにおいて
いく事を詫び走った。
 娘は一命を取り留めた。しかしそれは死を免れただけだった。今日まで娘は目を覚まし
た事は一度もない。ベッドの上でずっと眠り続けている。
 どこかで機械音が鳴っている。
 不審な機械音に里中はゆっくりと夢から引き戻される。
 里中が異常に気がついて目を覚ましたのは医療機器が発する普段聞きなれない音が耳に
入ってきたからだった。目を開けると全ての医療機器が警報のような音を鳴らしている。
 ――何が起こったんだ?
 それは素人である里中が見てもすぐにわかる異常な状態だった。そしてその元凶が娘の
手に握られている物のせいであることは一目瞭然であった。彼女の手の中であの緑色の球
体は見たことがないほど煌々と光を発している。何故かなんてわからない。しかしこれが
原因である事は間違いない。そう思った里中は必死で娘の手を開きながら彼女の名を叫ん
だ。
「双葉! 双葉!」
 病室から聞こえてくる叫び声を聞きつけて、担当医が走りこんでくる。
 里中はがっしりと握られた手を何とか開かせる。強く握られたその掌は血に染まり、緑
色だった球体も赤々とした血を浴びてなお歪んだ光を放っていた。
「くそっ!こんなもの!」
 窓を大きく開け放つと里中は緑色に発光する球体を思いっきり外へ投げた。
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